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『教皇選挙』レビュー☆自分の野望に気づくとき
この作品によって、「コンクラーベ」という言葉を初めて知った方も多いのではないでしょうか。日本での公開中にフランシスコ教皇(当時)が崩御され、コンクラーベ=教皇選挙のニュースが大きな話題になりましたね。
- 『教皇選挙』
- 脚本
ピーター・ストローハン - 監督
エドワード・ベルガー - 主な出演
レイフ・ファインズ/スタンリー・トゥッチ/ジョン・リスゴー/イザベラ・ロッセリーニ - 2024年/アメリカ・イギリス/120分
※以下の記事は作品の魅力を紹介するため最小限のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。
☆あらすじ
ローマ教皇が亡くなった。
次の教皇を決める教皇選挙(コンクラーベ)を執り仕切るのは、主席枢機卿であるローレンス(レイフ・ファインズ)の役目だった。
悲しみに暮れる暇もなく、準備に追われるローレンス。
彼はリベラル派のベリーニ枢機卿(スタンリー・トゥッチ)を次期教皇に推していたが、保守派のトランブレ枢機卿(ジョン・リスゴー)やテデスコ枢機卿、初のアフリカ系黒人教皇を狙うアデイエミ枢機卿らも有力な候補だった。
世界各国から、そんな有力候補を含む100人以上の枢機卿たちがバチカンに集まってきていた。
そんな折、教皇庁長官のウォズニアック大司教から、トランブレ枢機卿に関する不正の報告書があり、教皇は死の直前彼に辞任を迫っていたとの情報がもたらされる。ローレンスは直ちにトランブレに確認するが、彼は即座に否定した。
真相を調査したいローレンスだったが、コンクラーベのために隔離される時間が迫っていた。
そのタイミングで、名簿に載っていない枢機卿が到着する。
それはメキシコ生まれで、現在はカブールに赴任するベニテス枢機卿。彼は教皇から秘密裏に(イン・ペクトーレ)枢機卿に任命されていたため、ローレンスもその存在を知らなかった。
正式な任命状を携えていたため、ローレンスは正当な枢機卿として彼を認めることにするが、コンクラーベの開幕を前にして、不穏な胸騒ぎを隠せないローレンスだった‥‥。

☆コンクラーベとは?
コンクラーベというものについて、基本的な情報をおさらいしておきましょう。
まず、誰が投票資格を持っているのかということですが、これは、全世界の枢機卿のうち80歳未満の人に限られるということです。
カトリック教会の規定には、「定員は120人以内」との記述もあるようですが、2025年4月21日のフランシスコ教皇の逝去を受けて同年5月7日から行われたコンクラーベでは、その時点で投票資格を持つ80歳未満の枢機卿は135人。そのうち、健康上の理由で辞退した2人を除く133人が参加したとされています。
次に開催日程についてですが、教皇の逝去後15日後以降(葬儀が4日後から6日後、そこから教皇庁が9日間喪に服する決まりのため)で、枢機卿がそろわない場合に限り20日後まで延ばすことができるそうです。
場所は、バチカン宮殿内のシスティーナ礼拝堂と決まっています。
枢機卿たちは、期間中はスマホやノートパソコンなどをすべて没収され、直接間接を問わず、外部とのいっさいの接触を絶って投票に臨みます。
ちなみに、劇中にあるように枢機卿が秘密裏に任命されることは実際にあるようで、イン・ペクトーレ(in pectore=ラテン語で「心の中に」の意)と呼ばれます。枢機卿という立場にあることが広く知られると、その人の身に危険が及ぶ、という理由から行われるケースが多いようです。
肝心の選出方法ですが、全投票者の3分の2以上の票を獲得する候補者が現れるまで、何回も投票を繰り返します。新教皇が決まれば、直ちにシスティーナ礼拝堂の煙突から白い煙が立ち昇って、新教皇の誕生を市民に知らせることになっていますが、決まらない場合は黒い煙が(何度でも!)上がることになっています。
まさに、コンクラーベは「根比べ」——。
しかし本作の場合、「根比べ」であると同時に、それは疑惑と策略に満ちた密室のドラマであり、言葉を変えれば、それは人間の信仰と心理に根差した深遠なミステリーである、とも言えるでしょう。

☆沈黙の裏でうごめく人の意志
エドワード・ベルガー監督は、かつて『西部戦線異状なし』(2022)で静謐と暴力を交錯させ、戦争の空虚さを圧倒的な映像と音響設計で描き出しました。この作品で世界的な注目を集めた彼は、本作においても同様に、「見えないもの」を映し出す演出力を存分に発揮しています。
本作では、観客を興奮させるようなアクションも大音量の音楽も存在しません。あるのは、礼拝堂に集う老いた男たちの沈黙と、小さな言葉の応酬。そして呼吸のように差し込まれる光‥‥。しかしベルガー監督の演出によって、その沈黙こそが最大のドラマとなるのです。
特に印象的なのは、システィーナ礼拝堂を舞台としたシーンの数々。
祭壇に描かれたミケランジェロのフレスコ画、「最後の審判」を見上げながら枢機卿たちが着席する場面では、カメラが俯瞰的に礼拝堂全体を捉え、その荘厳さと同時に「閉塞感」を強く印象づけます。まるで神に見下ろされているかのような視点。観客もまたその場に居合わせ、裁かれるような感覚に陥ります。
また、光と影の扱いも秀逸です。
窓から差し込む自然光は決して明るくはなく、どこか不安定で揺らめくようで‥‥。ロウソクの炎が照らす顔は半分が闇に沈み、それぞれの人物の内面の揺らぎを示唆するかのようです。宗教映画というよりも、むしろ心理サスペンスのような映像美が全編を支配しています。
そして、主演のレイフ・ファインズ。
『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』(2005年)以降のヴォルデモート、また『007 スペクター』(2015年)以降のMなど、変幻自在な演技で知られる彼が本作で演じるのは、「神に仕える身」でありながら、人間的な弱さも抱える主席枢機卿です。
このローレンス枢機卿は、狂言回しのような役回りであると同時に、もっとも多くの変化を体験する存在でもあります。信仰と制度のはざまで揺れ動きながら、何が正しいのか、何を選ぶべきかに悩み、最後には静かな決断を下します。
ファインズは、この非常に内省的な人物を、最小限の動作と抑制された感情表現で演じます。そして、だからこそ、観る者の心に強く訴えかけてくることになるのです。彼の心に芽生える迷いや、疑念や、怒りや、苦悩を‥‥。
表情や目線のみならず、彼の「手」も極めて雄弁です。
祈るとき、書類をめくるとき、同僚の肩に手を置くとき——ひと言の台詞もない場面で、彼の手はゆっくりと動いて、主張します。まるでその手には、神の意志と人間の罪とが同時に重なって乗っているのだ、と言わんばかりに。

☆神の声と人間の権力との交差点
カトリック教会は宗教団体であると同時に、世界最小の独立国家・バチカン市国でもあります。その観点からは、頂点に立つローマ教皇は精神的指導者であるのみならず、国家元首でもあり、その存在は象徴を超えた「統治者」だと言えます。
コンクラーベでは、選ばれし枢機卿たちが世界各地から集い、密室で議論を交わし、投票によって新教皇を選び出します。このプロセスは外部から完全に隔絶され、純粋に「聖霊の導き」によって選出される——ことになっていますが、本作はそこに「人間の政治」がいかに入り込んでいるかを暴いていきます。
ファインズ演じる主人公ローレンス枢機卿は、教義にも忠実で、清廉な信仰者ですが、彼の周囲には思惑を抱えた「政治家たち」が揃います。誰が保守派で、誰が改革派か。誰がどの派閥の支持を得ているか。誰が多数派を構築できるか。そこに交わされる言葉は聖書の引用に見えて、実は徹底的に計算された票読みでもあります。
最大のアイロニーは、「神の意志」によって選ばれるとされる教皇が、実際には人間たちの合議制、すなわち「政治的妥協」の産物として生まれているという点でしょう。聖霊に導かれて枢機卿たちが選ぶ、とされる新教皇選出のプロセスですが、その実態は政略、取引、裏工作、情報戦の渦。
教会が宗教団体である限り、清廉さを守ろうとする力が働くことは確かですが、同時に1億人を超える信者を擁する「地上最大のソフトパワー組織」である以上、政治的均衡が必要不可欠であるということも、また事実なのです。
そんな中、ローレンスはまさに「聖」と「俗」のはざまで揺れる人物として描かれます。彼は政治的野心を持たず、ただ誠実に神の意志を探ろうとするのですが‥‥。しかし、死んだ教皇が遺した「ある秘密」の存在を知ったとき、彼の内なる信仰と外の制度がぶつかり合いを始めます。
神に仕える者として、真実を暴いて明るみに出すべきか——。
それとも、教会という組織の安定を優先すべきか——。
それは、神の名を語る制度がいかにして人間の都合で作られてきたか、を突きつける問いでもあります。
教会は信仰を語りながらも、権威と正統性の維持のために制度に頼らざるを得ない。
逆に言えば、制度があるからこそ教会は継続可能なのだ。
ローレンスの苦悩は、深まっていきます。

☆そして、自分の野望に気づくとき
スタンリー・トゥッチ、ジョン・リスゴーら曲者ぞろいの共演陣も重厚な存在感を発揮しています。トゥッチ演じるベリーニ枢機卿は知的で合理的な外交派。しかし内には、底知れぬ野心を秘めています。
旧知の仲であるローレンスには、教皇になることを夢見ない枢機卿はいない、と本音を漏らす場面も。ベリーニは言います。「ここに集まっているすべての枢機卿が、教皇名(教皇となった際に名乗る名前)を決めている」
それに対して、「私は決めていない」と答えるローレンスでしたが‥‥。
シスター・アグネスを演じるイザベラ・ロッセリーニも、数少ない女性出演者の中で突出した存在感を示しています。映画監督のロベルト・ロッセリーニを父に、女優のイングリッド・バーグマンを母にもつ、サラブレッド中のサラブレッド。
真実を暴くため、意を決したローレンスが深夜に、封印された前教皇の居室に侵入する場面。それに気づいたアグネスが、廊下からそっと様子を伺う、その表情‥‥。
また、食堂に集まっている枢機卿たちを前にして、とある策略を仕組んだのがどの枢機卿であるかを証言するときの、信仰心に裏打ちされた、凛として、揺るぎないその佇まい‥‥。
その圧巻のパフォーマンスによって、彼女の血筋の良さを思い出したオールドファンも、少なくなかったのではないでしょうか(演技力と血筋の実際の関係はよくわかりませんが‥‥)。
そうしたさまざまな出来事を経て、有力な候補者が次々と消えていく中で、あのベリーニがローレンスに近づいて言います。
「そろそろ教皇名を決めておいた方がいいぞ」
補足すると、コンクラーベで新教皇に選出された場合、その直後に教皇名を何にするか尋ねられる習わしがあるそうなのです。コンクラーベを執り仕切る立場のローレンスは、当然そのことを知っています。
そしてここまでの投票状況でいえば、ベリーニの票は思ったほど伸びず、一方でベニテス(秘密裏に任命された、あの謎の枢機卿です)に代表されるように、ローレンスを推す動きは少しずつ大きくなってきていたのでした。
「そろそろ教皇名を決めておいた方がいいぞ」
そう言われて、ローレンスは意外にもこう返します。
「もう決まっている。ヨハネだ」
ローレンス、決めていたんだ!
と、私たちは思います。
そしてその頃には、私たち観客のほとんどが、こう考え始めています。
教皇に最もふさわしいのはローレンスではないのか?
それにしても、ローレンスはいったいいつから自分の野望に気づいていたのでしょうか。
封印された前教皇の居室に侵入したあの晩からか‥‥?
はたまた、コンクラーベが始まるずっと前からか‥‥?
そんなことを漠然と思いながら、投票用紙に自分の名前を書くローレンス見ていると、「やはりこれでよかったのだろう」という思いと、「これでいいのか」という相反するふたつの思いに、引き裂かれる自分がいることに気づきます。
そしてローレンスが「最後の審判」を見上げ、意を決して投票箱に自分の名前を書いた紙を入れた瞬間、爆発のような雷鳴のような音が鳴り響き、システィーナ礼拝堂の天井近くに穴が開き、倒れたローレンスの上に粉塵が降り注ぐ光景に唖然として、思考が停止します。
これは、神の怒りの鉄槌か——。
さて、カトリック信者ではない、あるいはキリスト教徒ではないという人にも、本作のテーマは決して縁遠いものではない、ということを最後に指摘しておきたいと思います。
本作で描かれている「神」は、人間の絶対的価値観のひとつにすぎません。
それは現代社会では(現代の自由主義国家では、と言った方がいいかもしれませんが)、「正義」「公益」「民主主義」などの理念に置き換えることができるでしょう。
その理念を背負って権力を握ろうとする人間たちの物語として観れば、本作が放つメッセージは普遍的なものであることに気づきます。
野望とは愚かなもの‥‥。
そうわかっていても、人間はそれほど強くも賢くもないのですね。
(鉄槌と思えたものが何であったのか、未見の方はぜひ作品を鑑賞してご確認ください)
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