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『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』レビュー☆突然の死、そして生きてることの幸運
オバケが主人公の映画ですが、ホラー的な要素はありません。
「死」とは何ぞや? 「死ぬ」ってどういうこと? と考えていくと、「生きてる」ということが愛おしくてたまらなくなる、そんな映画です。
- 『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』
- 脚本・監督
デヴィッド・ロウリー - 主な出演
ケイシー・アフレック/ルーニー・マーラ - 2017年/アメリカ/92分
※以下の記事は作品の魅力を紹介するため最小限のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。
☆あらすじ
若い男女が一件の家に暮らしている。
女は時折変な物音がするこの家を引っ越したいと思っている。だが男は、あまり引っ越しに乗り気でない。
そんなある朝、男は交通事故で死んでしまう。
男の遺体が安置された部屋で、女は最後の対面をする。悲しみに耐える女。男の顔にシーツを被せて、女はその場を立ち去る。だがやがて、男の遺体はシーツを被ったまま起き上がり、歩き始める。
男はそのまま家に帰り、女と一緒に暮らし始める。
女に男の姿は見えない。悲しみに打ちひしがれる女を、そばでじっと見ているだけの男。
時は流れる。
女がおしゃれをして出かけるのを、幾度となく見送る男。
夜更けに見知らぬ男に送られて、女は帰ってくる。
男はじっと見ていることしかできない。感情が爆発する。部屋の電気が激しく点滅し、本棚から本が落ちる。
しばらくして、女は男と暮らした思い出の部屋を出ていった。引っ越しトラックに荷物を積み込んで。
出ていく直前に、女は手帳の切れ端に何かを書いて、柱の木の隙間に小さく折り畳んで差し込んだ。それは少女の頃家の事情で転居がちだった女が、引っ越しの度にやる癖だった。
男はじっと見ていた。出ていく女をじっと見ていた。家に残って、ただじっと見送るだけだった‥‥。
☆解釈よりも何を感じるかを大切に観たい映画
不思議な映画です。
基本的に一組の男女の話ですが、この男女には名前がありません。エンドロールを見ると、男には「C」、女には「M」という記号が割り振られています。
魂、霊魂、幽霊、オバケ、精神的エネルギー‥‥さまざまに呼ばれるこうしたもの、ここではタイトルを尊重して「ゴースト」と呼んでおきますが、を主人公に据えた実験的な作品です。
もし死後の世界があったら、という仮定の元に作られた映画は今までにも結構あります。生きている人間だけで話を作ると展開が似たり寄ったりになってしまい、イマイチ窮屈です。そんなときに死んだ人間をストーリーに加えると俄然展開が自由になり、そこに新しい感動が生まれたりします。そうしたゴーストが出てくるファンタジー映画は、エンタテインメントとしてひとつのジャンルを確立した感さえあります。
しかし、この映画は何かが違います。
デヴィッド・ロウリー監督は日本公開時のインタビューでこう語っています。
魂が肉体を離れた後に起こる何か、その先にあるものを、自分は信じている。
これが映画宣伝用のリップサービスでないとしたら、そして映画の冒頭ヴァージニア・ウルフの短編「幽霊屋敷(A Haunted House)」の一節が引用されていることからも、その言葉はただのリップサービスとは思えないのですが(ヴァージニア・ウルフもまた霊魂の存在を信じていたという説があります)、この映画が従来のエンタテインメントとしてのゴースト映画と一線を画す理由も、よく理解できます。
セリフがほとんどない、ほぼ正方形(1.33 : 1だそうです)の画面、全編のおよそ半分はシーツを被ったゴーストしか出てこない‥‥、数々の実験的な試みを盛り込んで、ロウリー監督はひとりのゴーストの物語を紡ぎ出しました。
その物語には、さまざまに解釈する余地が残されています。
この極めて余白の多い描き方からは、ひとつの想念に捉われることなく、観る人それぞれの解釈に委ねようという監督の意志が感じ取れるような気がします。
ですので、この映画に関しては、これ以上の予備知識のない状態で鑑賞していただくことをお勧めいたします。
そしてこれはモリゾッチの私見で恐縮ですが、映画にとって大切なのは解釈ではなく、何を感じたかということだと思います。優れた映画は、観る者の心に(したがって人生に)何某かの影響を与えてくれるものです。見終わって自分が何を感じたか、そのことを大切にしてご覧いただければと思います。
では、ここから先は見終わってモリゾッチが感じたことを書いていきます。興味のない方は、飛ばしていただいて構いません(当たり前ですが)。
私たちは、自分が死ぬとどうなるのか、実のところあまりよくわかっていないと思います。死んだ人が動かなくなり、喋らなくなり、目を開かない、ということは知っています。しかし、それだけです。「死」については、その外側から見た情報しか私たちは持っていません。死体の中で死んだ人がどうなっているのか、実際に自分が死んでみないと知る方法がないのです。
しかし、実際に死んでみたらそれがわかるかどうかも、実はわかりません。「死」の瞬間自分の意識が失われて、何も認識できなくなる可能性もあるからです。
「死」の瞬間暗闇が訪れるとしても、それを暗闇と認識する自分がもういないのなら、それは暗闇ですらありません。一方で、暗闇だと認識する自分が死体の中にいたとしても、それを誰かに伝える方法はないかもしれません。
では、仮に本作のように自分がゴーストとなって好きな人の家に帰っていくと想像してみましょう。
切ないです。切な過ぎて、気が狂いそうです。
死んだ方がマシですが、もうすでに死んでいます。
☆人はどのように死ぬべきか?
人はこのように死んではいけない。結局のところ、思いつくのはこのことだけです。あらゆる人は、このように死ぬべきではないのです。
このように、とは、本作の場合は交通事故ですが、そういった突然の死のことです。ある場所に(または、ある人に)「思い」が残るからです。
「死」が避けられないものならば、せめて天寿を全うし、充分に生きたと思いながら、愛する人たちに看取られて老衰で死ぬ。そしてもし死後も魂が残っていたら、宇宙の彼方のどこかからそっとみんなを見守っている。
そんな「死」でありたいと思います。
そう考えていたら、この2年ほどは予期せぬ、不本意な「突然の死」がとても増えていることに気づきました(この記事は2022年4月15日に書いています)。それはもちろんコロナ禍と、最近のロシアによるウクライナ市民の大量虐殺によってです。ゴーストたちは今、一体どんな思いを抱えて彷徨っているのでしょうか。彼らは、そのように死ぬべきではなかったはずなのです。
ウィルスなど人類を危機に陥れる可能性のある病の情報は、速やかに全世界に共有されなければいけません。新型コロナウィルスで残念だったのは、中国からの最初の情報が遅く、私たちがその存在を知る前にすでにウィルスが世界各地に広がってしまっていたことです。
今後に備える意味でも、ワクチン・経口薬の開発ノウハウの蓄積とともに、新しいウィルスが発見された際に全地球規模で情報が共有される仕組みを作っていく必要があるのでしょう。
そしてウクライナでいま起きていることは、地球上に独裁国家が存在することの恐ろしさを如実に物語っています。独裁者は自分の利益のためだけに平気で他国へ侵略します。多数の自国民の「突然の死」をなんとも思っていません。ましてや他国の市民ならなおさらです。
そして、独裁国家はロシアだけではありません。
独裁国家の暴走を食い止めるため、民主主義諸国による集団安全保障の枠組みの再構築(強靱化・強固化)が急がれるところです。
上記2つの「突然の死」に対策が打たれれば、警戒すべきは交通事故と3大成人病ということになりますが、実は自動運転車が増えていけば交通事故は次第に減っていくのではないか、と希望的な観測も含めて注目しています。
とすればあとは3大成人病。それには適度な運動、柔らかい血管、大豆、魚介類、果物、‥‥etc。
理想の「死」が1歩ずつ近づいてきます。
しかし、とそこでまた気づきます。
どう死ぬかは大事だが、その前にどう生きるかの方がもっと大事だと。
そうです。ゴーストになることを想像してみれば、「生きてる」という今の状態がいかに恵まれていて、幸運で、素敵な状況なのかということが理解できます。
ありきたりな表現ですが、1日1日を大切に、悔いのないように生きよう。身近な人間関係を大切に、家族に優しく、感謝を伝えて、楽しみながら日々を過ごそう。
そんな思いが、心の中に満ちていきます‥‥。
ロウリー監督の狙いからはかなり外れてしまっているかもしれませんが、モリゾッチが感じたことを言葉にしてみました。これだけの影響を与えてくれた作品ですから、間違いなく優れた映画と言えるのではないでしょうか。