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『コーダ あいのうた』レビュー☆人生の本当の姿って?
コーダとは、耳の聞こえない両親に育てられた子供(Children of Deaf Adults=CODA)のことです。
本作は第94回アカデミー賞で作品賞に輝きました。
- 『コーダ あいのうた』
- 脚本・監督
シアン・ヘダー - 主な出演
エミリア・ジョーンズ/トロイ・コッツァー/ダニエル・デュラント/フェルディア・ウォルシュ=ピーロ/エウヘニオ・デルベス/マーリー・マトリン - 2021年/アメリカ・フランス・カナダ/111分
※以下の記事は作品の魅力を紹介するため最小限のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。
☆あらすじ
漁船の上で大音量のラジオに合わせて歌を唄っている少女がいる。高校生のルビー(エミリア・ジョーンズ)だ。
彼女は2人の男と早朝の漁の真っ最中。だが、男たちは黙々と作業し、彼女の歌に関心を示さない。
そう、彼らは耳が聞こえないのだ。
父のフランク(トロイ・コッツァー)は代々の漁師で、兄のレオ(ダニエル・デュラント)がその跡を継ぐべく頑張っていた。
だが、漁船に無線が入ったときに受け答えができるのはルビーだけだった。彼らの漁にとって、ルビーは欠かせないメンバーだった。いや、漁だけではない。彼女は幼い頃から、手話を使って家族の通訳の役目を果たしてきたのだ。
同じく聴覚障害者の母ジャッキー(マーリー・マトリン)も、家族の中で唯一の健聴者であるルビーを頼りにしていた。
かくしてルビーは、漁を終えてから学校へ行き、しばしば授業中に爆睡してしまうのだった。
そんなある日、クラスの気になる男子マイルズ(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)が合唱部に入ると知り、自分も衝動的に合唱部に入部申請をしてしまう。
最初はみんなの前で唄うことすらできなかったルビーだったが、顧問のベルナルド(エウヘニオ・デルベス)は彼女の才能を見逃さなかった。自宅で個人レッスンをし、都会の名門音楽大学の受験を強く勧めた。
もともと唄うことが大好きだったルビーは、戸惑いながらも、家族と離れて歩む自分の人生というものについて、少しずつイメージできるようになる。マイルズとともに音楽大学へ進学し、歌の勉強をする。そんな夢を、自覚するようになる。
ついにルビーは、その夢を家族に打ち明ける。
兄は理解を示してくれたが、父と母が猛反対した。以前から手話で言いたいことを言い合う家族だったが、漁ができなくて食べていけなくなる、ルビーがいなければダメだ、と2人して勝手なことをまくし立てた。
両親の反対にショックを受けたルビーは、翌日の漁をサボった。
だが、その日漁船に入った無線に応答できなかったという理由で、父は漁の免許を停止させられてしまった。
打ちひしがれる家族。
それを見て、ルビーは決意する。自分は一生この家族と一緒に過ごす。家族の「耳」となって、家業を支えていく、と。
合唱部の発表会は、すぐそこに迫っていた‥‥。
☆障害があってもなくても、親と子供は住んでる世界が違う
第94回アカデミー賞では、作品賞のほかに脚色賞(シアン・ヘダー)と助演男優賞(トロイ・コッツァー)と、ノミネートされた3部門すべてで見事に受賞を果たすことになった本作ですが、脚色賞の対象になっていることからわかるように元ネタがあり、実はフランス映画『エール』(2014年)をリメイクした作品です。
聴覚障害があるフランスの酪農一家の話をアメリカ・マサチューセッツ州の漁師一家に設定を変え、ヘダー監督が新しい物語に作り替えました。
作品賞では、圧倒的に前評判が高かった『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(監督賞はこの作品のジェーン・カンピオンが獲りました)を抑えての受賞となったのですが、本作の名前が呼ばれた瞬間、会場にいたほかの作品の出演者やスタッフたちが、いかにも納得した表情で拍手を送っていたのが印象的でした(実際には多くの人は手話で拍手を送ったので、顔の両側で手をヒラヒラさせていたのですが)。
主演を務めたエミリア・ジョーンズは、イギリス生まれで8歳の頃から子役として活躍。『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』(2011年)などにも出演歴があります。
最近ではアメリカのテレビシリーズ『ロック&キー』(2020年に配信)の主役の一人を演じて、人気を博しているようです。
本作では、聴覚障害者と同等に手話を操るだけでなく、ふんだんに用意された歌唱シーンでも非常に説得力のある歌声を披露して、この難しい役所を見事に演じています。
ルビーの家族には、実際に聴覚障害のある俳優がキャスティングされました。アカデミー賞の会場では、彼らのために多くの人が手話で拍手を送ったのですね。
この3人のお芝居がどれも素晴らしく、聴覚障害者のリアルな日常とたくましい生活力と、そして家族に対する深い愛情が濃密に表現されていたことが、この作品の成功の最大の要因であると多くの人が認めていた証拠ではないでしょうか。
本作のベースとなるトーンは、コメディーです。
食卓で宿題をするルビーの前で、父のフランクは食事をしながらオナラをします。ルビーから臭いと非難されると、オナラは耳が聞こえない人間にも楽しめる生理現象なのだ、と手話で強弁します。
合唱部の発表会で気になっていた男子マイルズとデュエットすることになったルビーは、初めて彼を自分の部屋に招いて練習をするのですが、歌も2人の恋心もいい感じに盛り上がってきたと思った瞬間、隣の部屋から何やら物音が‥‥。
行ってみると、両親がエッチの真っ最中でした。耳が聞こえない彼らには、ルビーが帰宅したことが(ましてや、男の子を連れてきたことなど)わからなかったのです。
そうしたトーンの中に、ルビーの親友が兄のレオを誘惑したり、漁港の仲買人に買い叩かれることを嫌気したフランクとレオが、獲った魚を自分たちで売りさばくための協同組合を立ち上げるエピソードなどが挿入されていきます。
そしてルビーは、「家族と自分」というものについて、真剣に考え始めるのです。
小さいときからずっと一緒だった家族。
いつも手話でバカを言い合って笑っている家族。
下品だけど、飾り気がなくて、周りの健常者からはバカにされることもあるけど、めげない、たくましい家族。
自分だけが3人とはちょっと違うけど、でも、いつも4人で困難に立ち向かってきた。
これからも‥‥。
いや、しかし、それでいいのだろうか?
勇気を出して、音楽大学に進学して歌の勉強がしたいと打ち明けたとき、母ジャッキーの反応は予想外でした。
歌って‥‥。あなた、反抗期なのね。
もしも私が目が見えなかったら、絵描きになりたいって言ったでしょう?
耳の聞こえないジャッキーには、音楽の素晴らしさも、娘の歌の才能も理解できないのです。しかしそれは、父のフランクもまったく同様でした。
ルビーの夢は、両親には理解されない夢。
ヘダー監督は、このルビーと両親との関係について、親と子供の住む世界が違っていてお互いをうまく理解できないというのは、障害のあるなしに関係なく、すべてのティーンエイジャーとその親に共通する問題なのだ、と語っています(公式HPより)。
この言葉からは、家族や親子の関係を見つめる、温かくて優しい眼差しが感じられますね。
さて、ヘダー監督は、この普遍的な親子の問題について、どのように解決の糸口を見つけようとしたのでしょうか?
大学進学を諦めたルビーは、合唱部の発表会に臨みます。
ジャッキーは、家に残ることを決めた娘のために、発表会のステージで着る赤いドレスを贈りました。
当日は、家族全員が駆けつけました。
幕が開き、部員全員での合唱が始まります。
聞こえないフランクとジャッキーは、手話で会話を始めます。赤いドレスが似合っている。バックの幕の色と揃っていてきれいだ、etc(手話って、コンサート中の会場でも会話ができて、ちょっと便利だなと思いました)。
やがて話すこともなくなり、所在無げに周りの様子を伺う2人。
2曲目はルビーとマイルズのデュエットです。
練習した甲斐があり、とても美しいハーモニーです。会場は一段と静まり返り、皆が聴き惚れていることがわかります。
ここでヘダー監督の演出は、驚くべき手に打って出ます。2人のデュエットは続いていますが、すべての音を聞こえなくしてしまいました。映画の観客(劇中の発表会の観客ではありません)に届けられるのは、ただ映像のみです。
映画の観客は、フランクやジャッキーと同じ状態に置かれたのです。
映像のみの音のない世界。これが彼らの世界なのです。
両者の住んでいる世界の違いが、際立ちます。
うっとりとした表情でステージを見つめる会場の人々の顔。感動して涙を拭う人もいます。すべての人の好意的な眼差しが、ステージ上の2人に注がれている状況。
それを映像だけで感じ取るフランクとジャッキー。
☆知ろうとする努力と伝えようとする努力
家に着いても、フランクは中に入ろうとはしません。母と兄は部屋に入ってしまいましたが、ルビーは気になって残ります。
すると、ピックアップトラックの荷台に腰掛けていたフランクが、ルビーにこう言います。
俺のために、ここでもう1回唄ってくれないか。
ルビーが横に腰掛けて唄い始めると、フランクはルビーの首に手を当てます。彼女の首を両手で包み込むようにして、喉の振動を感じ取ろうとします。
喉のかすかな震えを愛おしむような、フランクの無骨な大きな手。
彼は彼のやり方で、娘の歌を「聴いた」のです。
翌日、ルビーは叩き起こされます。
漁の時間かと思って飛び起きると、陽はもうかなり高くなっています。
そうです。今日はあの音楽大学の歌唱試験の日。顧問の先生が受験の枠だけは確保しておいてくれたので、今から行けばまだ受験に間に合うのです。
実は、この「明日が試験で、枠は確保してある」という情報は、昨夜の発表会の帰り際に顧問の先生とルビーとのやりとりで、映画の観客には知らされています。
しかし、ルビーはそのとき、一緒にいた家族にそのことを手話で通訳しませんでした(家族への気遣いですね)。
なので、ルビーの家族がなぜこのことを知ったのかは説明されいていないのですが‥‥。
そのことを気にする観客は少数派でしょう。
もともとそこを気にするようなトーンの物語では、ありませんから。
さて、試験会場です。
試験官と家族の前で、ルビーはあのジョニ・ミッチェルの名曲「青春の光と影」を唄います。
ちなみにこの曲は、1967年にジュディ・コリンズのアルバムに初めて収録されました。作詞・作曲したジョニ・ミッチェルがこの曲を収録した自身のアルバム「青春の光と影」をリリースしたのは1969年。以降も多くのアーティストにカバーされてきた名曲中の名曲です。
歌詞の概要というかエッセンスは、だいたいこんな感じです。
私は人生を両側から見てきた
勝ったり負けたりを繰り返して
でも、それは人生の幻影
人生の本当の姿なんて、何もわかっていない
ルビーはこの曲を、途中から家族に向けた手話付きで唄います。
彼女の伸びやかな声がシンプルなメロディーに乗って、そしてさらに、家族に伝えたいという彼女の思いがその懸命な手話の動作に乗って、観ている私たちの心に届きます。
そして、見守る家族たちの表情。
特に、フランクの目。
セリフはなくても、いや、どんなセリフよりも、ルビーへの愛が伝わります。
胸を打つシーンになりました。
フランクを演じたトロイ・コッツァーは、本作の演技で史上2番目の「聴覚障害のあるオスカー俳優」となりました。
ちなみに史上初は、もちろん本作でジャッキーを演じたマーリー・マトリン。『愛は静けさの中に』(1986年)で第59回アカデミー主演女優賞を受賞しています(しかも当時史上最年少の21歳で、ジェーン・フォンダ、シガニー・ウィーバー、キャスリーン・ターナーら並み居るベテラン女優を押しのけての受賞でした)。
☆人生の本当の姿なんてわからないけど
さて、違う世界に住む親と子は、知ろうとする努力(喉の震えを感じる)と伝えようとする努力(手話)で、2つの世界に橋を架けようとしたのでした。
その橋のことを、あるいは、その橋をかけようとする努力のことを、人は「愛」と呼ぶのかもしれません。
アカデミー作品賞の受賞スピーチで、プロデューサーのひとりが言いました。
この難しい時代に愛と家族の物語を選んでくれたアカデミーに感謝したい。
そっくりそのまま、こう返したい気分になります。
この難しい時代に愛と家族の物語を作ってくれた製作陣に感謝したい。
そして、脚本と監督を兼任したシアン・ヘダー監督。
またひとり、才能あふれる女性監督が出現したことは間違いありません。次回作が、今から楽しみです。
ストーリーの細かい辻褄は本作の場合あまり気にならない、と前述しましたが、終盤の展開はまさにお約束。鑑賞後のいわゆる後味を考えて、最善の選択をした結果の必然の展開、という気もします。
つまり、ルビーは合格し、家族に見送られて大学生活へと旅立っていきます(この映画にこれ以上のラストがあるでしょうか?)。
そのラストを見ながら、胸の中にこんな思いが湧き上がってきます。
ルビーは歌で大成するだろうか?
実力があっても、それだけで成功するほど世の中は甘くない。
夢破れて、家族の元へ帰ってくることも、もしかしたらあるのかもしれない。
歌で成功したら、人生は「勝ち」だろうか?
家族の元へ帰ってくる人生は、「負け」なのか?
でも、それって幻影?
人生の本当の姿って‥‥?
人生の本当の姿なんてわからないけど、家族と繋がっていれば大丈夫。だから、たとえ住んでる世界は違っても、橋を架ける努力を惜しまないで。
人生の「勝ち」や「負け」よりも、大切なのは「家族と自分」の関係。
エンドロールを眺めているとき、なんだかそんなメッセージを受け取ったような気がしました。
(血の繋がった家族がいない方、あるいは家族と離れざるを得なかった方は、「家族」を友人・仲間・恋人と置き換えて考えてみてください)
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