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『地中海殺人事件』レビュー☆暴走は破滅への道
アガサ・クリスティの推理小説『白昼の悪魔』が、この作品の原作です。
アドリア海に浮かぶ小島のリゾートホテルという、世間から隔絶した環境のいわば自然の密室で、白昼の殺人事件が発生します。
- 『地中海殺人事件』
- 脚本
アンソニー・シェーファー/バリー・サンドラー - 監督
ガイ・ハミルトン - 主な出演
ピーター・ユスティノフ/ジェーン・バーキン/ニコラス・クレイ/ジェームズ・メイソン/マギー・スミス - 1982年/イギリス/117分
※以下の記事は作品の魅力を紹介するため最小限のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。
☆あらすじ
ベルギー人の探偵エルキュール・ポアロは、保険会社からある依頼を受ける。富豪のブラット卿が高額の保険をかけたダイヤが実は模造品であることが判明したので、調査をしてほしいというのだ。
ブラット卿はニューヨークで知り合ったアリーナという女優と結婚するつもりでそのダイヤをプレゼントしたが、イギリスへ戻る途中で彼女は逃げて、ほかの男と結婚してしまった。婚約を破棄したのだからダイヤは返してほしい、そう連絡すると、最初は渋っていた彼女がようやく返してきた。
そのダイヤが模造品だったとポアロから聞かされて、ブラット卿は激怒した。
ブラット卿によれば、アリーナは3日後にアドリア海の小島のホテルを訪れ、新しい家族と夏の休暇を過ごすことになっている。ブラット卿は、自分もそこへ行って彼女を問い詰めるので、ポワロにも同行して立ち会うよう依頼した。
ダフネという中年女性が経営するそのリゾートホテルは、ティラニア国王の夏の離宮を改修した建物だった。ダフネはかつて国王の愛人で、手切れ金代わりにその離宮をもらったのだ。
ポアロがホテルに着いた夜、宿泊したのは彼を除いて8人だった。
まずアリーナと夫のケネス。夫の連れ子で、まだ10代のリンダ。
夫婦ともにニューヨークの演劇プロデューサーであるガードナー夫妻は、自分達の次回作にアリーナをキャスティングすべく企画書を持って宿泊していた。
演劇評論家で作家でもあるレックスは、アリーナの伝記を書くことになっていて、ひとりで泊まっていた。
そしてもう1組、若い夫婦のレッドファン夫妻。この夫婦の夫は実はアリーナと愛人関係にあり、夫婦の宿泊予約を入れたのもアリーナだった。
肝心のブラット卿はポアロとは別に自分のクルーザーで島に向かっていたが、航海の都合で1日遅れると連絡が入っていた。
宿泊客は皆、アリーナと何らかの縁がある者ばかりだった。そしてホテルの女主人ダフネもまた、アリーナとはかつての踊り子仲間であり、ライバル関係にあったようだった。
翌日、ガードナー夫妻はアリーナから舞台への出演を断られた。レックスは、伝記の出版を取り止めにしたいと言われ、憤慨していた。神経質で日焼けが体質に合わないレッドファン夫人は、アリーナが人目もはばからず自分の夫と海でいちゃついているのを、パラソルの影から見ているしかなかった。そしてもうひとり、アリーナの夫であるケネスもまた、忌々しそうにアリーナとレッドファンを見ていた。
その翌日の昼ごろ、ブラット卿のクルーザーが到着した。そしてその直後、ホテルからは死角になっている海岸で、アリーナの死体が発見された。死因は絞殺だった。ポアロはその死体の近くの岩陰で、ブラット卿が持っていたはずの例の模造ダイヤを発見する。
すぐさま捜査を開始するポアロだったが、死亡推定時刻にはブラット卿も含めて全員に確かなアリバイがあった。
だが、殺人が起きた以上、この中の誰かが犯人でなければならない。そうポアロは考えていた‥‥。
☆絶海の孤島という「密室」の殺人
舞台はアドリア海の絶海の孤島。その島にひとつしかないリゾートホテル。宿泊客は皆、いや、現地従業員を除いた登場人物は女主人も含めて皆、一癖も二癖もありそうな連中ばかり‥‥。
推理小説ファン、本格ミステリー好きにはたまらない舞台設定と言えるでしょう。ほぼ全員に殺す動機のようなものがあり、犯行のチャンスは全員にあって、アリバイもまた全員成立している。
よくできた話です。
ぜひ、名探偵ポアロの推理に挑戦してみてください。
というわけで、これ以上の予備知識のない状態でご覧いただくのがいいと思いますので、ここからはネタバレを極力排して、モリゾッチの感じたことを書いていきます。
物語の終盤、関係者全員をホテルのロビーに集めて、ポアロが自身の推理を披露します。周到に準備されたアリバイも見事に崩され、犯人が明らかになります。
これにて一件落着かと思いきや、犯人は涼しげな顔で、証拠はあるの? と問いかけます。推理は完璧でしたが物証は何もありません。無言のポアロに向かって、ところでポアロさんにはアリバイはあるんですか? と言いながら、犯人はロビーから出て行ってしまいます。
いかにも西洋的な展開です。肉食人種的とも言えるかもしれません。
これが、例えば日本の横溝正史ものだったら、探偵の推理が終わるか終わらないうちに、隠し持っていた毒を飲んで犯人は死んでしまいます。日本のサスペンスドラマでも、多くは断崖絶壁の上で推理が披露され、やはり終わるか終わらないうちに犯人は、「許して!」とか言いながら崖から飛び降りるのです。
それだけではありません。日本の犯人の場合、かなりの率で同情されます。殺すには殺すだけの理由があり、犯人は充分葛藤したけれど、ついに精神的に追い詰められて罪を犯さざるを得なかった‥‥。
それが、味噌汁と米で育った日本のミステリーの真骨頂です(あくまで個人の感想です。多様な意見と感想で、世界は成り立っています)。
しかし肉を食べていると、違います。
この物語の犯人は、すっかりバレているのに、え、何言ってんの? 的な態度で逃げ伸びようとして、決して諦めません。この粘りというか諦めの悪さは、和食の文化からは出てこない気がします(あくまで個人の感想です。多様な意見や感想で、世界は成り立っています)。
考えてみると、この物語の登場人物はみんな貪欲です。よく言えば、自分の欲に忠実。ただし「欲の追求力」とでも呼ぶべき力が、肉食だけにハンパない、そんな匂いがぷんぷんします。貪欲を通り越して、強欲。
演劇プロデューサー夫婦も伝記作家も、アリーナで一発当てようという魂胆が全身にみなぎっていますし、ホテルの女主人も、国王の離宮を自分のものにしてしまったのですから、相当なタマに違いありません。そうかと思えば、アリーナの愛人になっていい思いをしようという、何ともストレートな欲の追求を見せる若い男もあり、彼女を後妻に迎えた現在の夫もまた、立派に欲を追求して成果を上げたと言えます。
その中でも、何と言っても「欲の追求力」が一番強かったのが、殺されたアリーナ本人ではないでしょうか。ブラット卿を弄びダイヤをせしめたところでドロンして、別の男と結婚。その新しい家族との夏の旅行には、若い愛人を同伴‥‥。まさにやりたい放題。こんなふうに生きることができたら、どんな気分なのでしょう。
そんなことを考えていたら、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(1976年刊/日本では1991年発行)を思い出しました。すべての生き物は遺伝子を運ぶための乗り物に過ぎない、というお馴染みの、生物にとってはいささか自虐的な学説ですね。
しかし寿命に関する最近の研究から、こんなことも分かってきたそうです。生物を作っている体細胞は細胞分裂の回数に制限がある(「テロメア」という染色体の末端にあるさまざまなタンパク質からなる構造が、この制限に関係しているらしい)のに対して、精子や卵子など生殖細胞にはこの制限がないのだそうです。細胞分裂し続ける、つまり、生き続けるということですね。
このことからも、どうやら私たち生命は最初からそのように設計されている、ということが言えそうです。
そのように、とは、生き続けるのは遺伝子だけ、個体は乗り捨てられる車と同じで、何代にもわたって遺伝子の旅を支える道具に過ぎないのだ‥‥、という感じで、これはやはり、自虐的な気分になりますかね。
道具である以上、性能がいい方が役に立ちます(っていう言い方が、すでに自虐的ですけど)。
そういう意味では、この物語の登場人物は、みんな高性能な道具だという気がしませんか? 欲には色々ありますが、確率的な話として考えれば、さまざまな「欲の追求力」が強い方が、最終的に遺伝子をたくさん残しそうですよね。
ところが、ドーキンスも「利己的な遺伝子」の中で書いていますが、実際の自然界には、群れの中の役割分担を発達させるなどの利他的な戦略で成功している種がたくさんあります(代表的な例はミツバチですね)。つまり、乗り物である我々が利己的に振る舞うことは、必ずしも遺伝子の生存にとって有利とは言えないのです。
この点を、もう少しだけ詳しく見てみます。
すべての遺伝子は、ほかの遺伝子よりも自分の仲間を増やそうと常に「利己的」に振る舞います。それが遺伝子です。
一方で、自分では子孫を残さない働き蜂の献身的な振る舞いは、女王蜂の繁殖を助けることによって自分達ファミリーの遺伝子を世界に広げることに寄与しています。個体レベルで見れば「利他的」な行動ですが、遺伝子レベルで見れば「利己的」な行動なのです。
個体が「利己的」に振る舞うという戦略のミツバチもかつて存在したかもしれませんが、進化の過程で淘汰されて現在のミツバチが残った(広がった)と考えられます。個体レベルで「利己的」な戦略は遺伝子レベルで「利己的」ではなかったので、残らなかった‥‥。
遺伝子が「利己的」というのは、そういう意味だと思います。
☆物証なき推理の果てに
さて、そう考えてくると、我らがアリーナはいささか「欲の追求力」が強過ぎて、突っ走り過ぎたのでは、という気がしてきます。殺されてしまっては、元も子もありません。遺伝子にとっては破滅です(もちろん、乗り物のアリーナも破滅していますが)。
そしてこのことは、アリーナ殺しの犯人も同様です。欲が暴走し、破滅への道を転がり落ちた。そう言えるのではないでしょうか。
犯人といえば、本作のラストが気になる方のために書き添えますが、ご安心ください。あのあと再びロビーに現れた犯人は、ちょっとした気の緩みから、物証と呼べるものをその場に残してしまいます。もちろん、ポアロはそれを見逃しません。
あえなく御用となって、大団円を迎えます。
といったところで、この記事もそろそろ大団円に向かいます。
ドーキンスはちょっと気を悪くするかもしれませんが、実は遺伝子を世界に広めることなどどうでもいい、というのがモリゾッチの本音です。そんなことより、乗り物としての自分の幸せがの方が気になります。
どうせ乗り物なら(と、どうしても自虐的になってしまいますが)、暴走しない乗り物を目指したい。適度に利己的で、道具としての性能もそこそこにありながら、ほかの乗り物から恨まれることもなく、犯罪も犯さない。破滅の道へ進まない乗り物‥‥。
しかし、よくよく考えてみると、そうやって乗り物自体が自制することも、「利己的」な遺伝子の思う壺と言えるのかもしれませんね(いや、ドーキンスの思う壺か? ま、どうでもいいですね)。
いずれにしてもみなさん、自分を大切にしてください。
暴走は破滅への道です。
利己的に生きるのも、ほどほどに。余計なお世話ですけど。
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