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『メイ・ディセンバー ゆれる真実』レビュー☆事件と純愛は紙一重
- 『メイ・ディセンバー ゆれる真実』
- 脚本
サミー・バーチ - 監督
トッド・ヘインズ - 主な出演
ナタリー・ポートマン/ジュリアン・ムーア/チャールズ・メルトン - 2023年/アメリカ/117分
※以下の記事は作品の魅力を紹介するため最小限のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。
☆あらすじ
1990年代、アメリカ南部ジョージア州で、世間を騒がせるスキャンダルが起きた。36歳の既婚女性グレイシー(ジュリアン・ムーア)は、当時13歳だった少年ジョー(チャールズ・メルトン)と関係を持ち妊娠。法により彼女は収監されるが、刑務所内でジョーとの子を出産。メディアはこの衝撃的な事件を「メイ・ディセンバー事件」と呼び、大きく報道した。
その後、出所したグレイシーはジョーと結婚し、さらにたくさんの子供をもうけた。20年以上が経過した現在、卒業を控えた子どもたちを抱えてそこそこの「普通の家庭」を築いている。
そんなある日、かつてのスキャンダルを題材にした映画が制作されることとなり、ハリウッド女優エリザベス(ナタリー・ポートマン)が、役作りのためにグレイシーを訪ねてやってくる。
彼女はグレイシーを演じる予定で、脚本には書かれていないグレイシーとジョーの内面や、日常生活に潜むニュアンスを知るため、彼らの自宅での取材を始める。
グレイシーは一見、温和で社交的な中年女性であり、過去のスキャンダルなどなかったかのように明るくエリザベスを迎え入れる。彼女は子育てを終え、今ではケーキ作りに勤しみ、家族との時間を大切にしているように見える。だが、エリザベスの目には、グレイシーの「完璧すぎる振る舞い」がどこか「演技」のようにも映る。
一方、ジョーは物静かで穏やかだが、どこか無気力な雰囲気をまとっている。若くして社会的な注目を浴びた彼は、今もその影から逃れられずにいる。妻との関係は安定しているように見えるが、その実、彼自身の過去の出来事に対する認識や感情は、未整理のまま内面に沈殿している。
エリザベスはリサーチを進める中で、次第にグレイシーとジョーの夫婦関係、そして彼らの過去の「真実」に違和感を覚え始める。「ジョーは自分の意志で選んだ」「私たちは真実の愛を見つけた」とグレイシーは繰り返すが、それは本当に愛だったのか、それとも自己正当化された記憶なのか。
エリザベスは次第に質問の角度を鋭くし、グレイシーの語る「過去」を掘り崩し始めるのだった‥‥。

☆実話を題材にした濃密な心理劇
タイトルは5月と12月を意味する英語ですが(May December)、これは「1年のうちで最も離れた月」から転じて、「年齢差の大きなカップル」を指す俗語です。
1996年のアメリカで実際に起きた、34歳の女性と12歳の少年との恋愛スキャンダルーーメイ・ディセンバー事件と呼ばれた実話を題材にして、濃密な心理劇に仕上がりました。
実話では教師と生徒であった2人の関係が、ペットショップの店員とアルバイトという関係にアレンジされています。子供の人数も、夫婦関係がいまも続いている点も実話と違っています。しかし、この「事件」の核となった事実は実話の通り。
ただ、フィクションの力を借りてこの衝撃的な事件の真相に迫ろうとする社会派的な目線ではなく、ひとりの「女優」を絡ませることで起こる化学反応を観察する。トッド・ヘインズ監督の主眼は、そこに置かれていたように思います。
極めて非世俗的なこと(世俗的に見ればそれは「事件」ですが)を成し遂げた夫婦に、世俗的な価値観の代表のような人物(女優)を絡ませることで、年の離れた夫婦の「真実」に向かって当てられた光が、跳ね返ってきて、世俗にまみれた我々の「愛」を照らし出すーーそんな趣の作品になっています。
光を当てる役だったエリザベス。
彼女自身が、役作りという目的を超えて、グレイシーとジョーの物語に徐々にのめり込んでいきます。ジョーと2人きりで過ごす時間の中で、彼の内面に潜む抑圧された怒りや孤独、過去と向き合えていない苦悩を垣間見るたびに、自分自身の感情も揺さぶられていることに、彼女は気づきます。
やがて彼女は、自らの内面とこの事件を重ね合わせるようになっていきます。
グレイシーを模倣する仕草や話し方、ファッションまでも取り入れ始め、グレイシーを「演じる」というよりも、グレイシーそのものになろうとするかのように、境界線が曖昧になっていくエリザベスーー。
一方でグレイシーも、エリザベスに「演じられる」ことで、自身の過去と向き合わざるを得なくなり、その仮面が次第に剥がれ始めるのです。
やがてクライマックスでは、エリザベスがグレイシーにとって最も触れられたくない核心に近づいたことで、2人の関係は一気に緊迫します。
そしてジョーは静かに、しかし確実に、「過去を語らず、振り返らず」というこれまでの生き方から一歩踏み出して、自身のアイデンティティーの再構築に向き合い始めます。
本作は、事件の全容を直接的に描くのではなく、登場人物たちの「記憶」と「認識」、そして「演じること」を通して浮かび上がる「ねじれた真実」を浮き彫りにしていきます。過去は誰のものなのか? 真実はひとつなのか? そして、それは事件なのか純愛なのか?
本作は、静かな心理的スリルとともに、人間関係の複雑さ、記憶と演技の危うさを描いた、繊細で濃密な心理劇と言えるでしょう。「本当の真実」とは何かを問いかけながら、観る者の心に、簡単に答えの出ない感情の揺らぎを残す作品であることは、間違いありません。

☆オスカー女優の息詰まる演技対決
エリザベスは、グレイシーとジョーの周辺の人たちからも話を聞きます。グレイシーの元夫、その夫との間に生まれた息子(彼はジョーと同い年だったりします)、逮捕されたときの弁護士‥‥。
そうした、いわば「目撃者」む含め、「当事者」や「演者」などそれぞれが抱える「ズレ」と「揺らぎ」のようなものを、ヘインズ監督は丹念に描き出していきます。
観客は、事件そのものよりもむしろ、「過去の記憶と現在の認識」がずれていく様を目の当たりにし、不思議な不安と共鳴させられるのです。
子供の卒業に涙する若き父親であり、グレイシーの良き夫であるジョー。
サバンナで繁殖する希少なモナーク蝶(オオカバマダラ)の保護に熱心な反面、保護仲間としてSNSで連絡を取り合う女性を旅行に誘って「既婚者なんでしょ?」とたしなめられる場面も。
そのジョーについて、「彼は私より異性経験が豊富だった」とグレイシーは話します。
仕事で不在が多かった父に代わって、幼い弟や妹の父親代わりとして早く大人になる必要があったのだ、と。夫しか知らない自分とはまるで違った、とも。
そのグレイシーは、ケーキの注文をキャンセルされたと言って、大粒の涙を流してジョーに抱きつき、慰めてもらいます。表向きは完璧なように見えて、エキセントリックなところもある彼女について、元夫との間にできた息子はこう言います。
昔の日記を盗み見てわかったんだけど、彼女は12歳のときから、2人の兄に断続的にレイプされてたんだ。
それを聞いて、すっかりグレイシーを理解した気になったエリザベスは、どうやら今回の映画のプロデューサーらしき人物と不倫中。衝動的にジョーとセックスをして、その意味を尋ねるジョーに対して、「大人なら誰でもすることよ」とうそぶいて見せます。
そのエリザベスを演じるは、本作のプロデューサーにも名前を連ねるナタリー・ポートマン。
リュック・ベッソン監督の『レオン』(1994年)で2,000人以上の候補者の中からマチルダ役に選ばれて、映画デビューを果たしました。
『レオン』の日本公開時のキャッチフレーズは「凶暴な純愛」。
ジャン・レノ演じる中年の殺し屋と天涯孤独となった12歳の少女との、親子ほども歳の離れた、恋愛関係とも言える特殊な結びつき(肉体関係はありませんが)が話題になりました。
大人になったナタリー・ポートマンは、『レオン』についてこんな感想を述べています。
「控えめに言っても不快な描写がある」
このあたりのことは、こちらの記事でも触れています。
撮影時の彼女の年齢は12歳。
これは、本作のモデルとなった実際の「事件」が起きたときの、あの少年の年齢と同じです。
何やら因縁めいてきますが、12歳の自分が性の対象として見られることに傷ついた少女は、『レオン』の公開から2年後の1996年、本作のモデルとなった「メイ・ディセンバー事件」にどんな思いを抱いたでしょう?
多感な思春期にあった彼女は、その「事件」を、自分にも充分起こり得たことと受け取ったかもしれません。トラウマのように、その残像が心の奥深くに残り続けたとしても、不思議ではないでしょう。
それから20数年、その事件を題材とした作品でプロデュースと主演を務めるのは、ある意味、自身の過去に向き合う行為そのものであったのかもしれません(それとシンクロするように、劇中ではジョンが自身の過去に向き合い始めます)。
そんなナタリー・ポートマンが本作で対峙するのが、ジュリアン・ムーア。
この2人のオスカー女優の演技対決はまるで鏡合わせのようで、静かなシーンでも濃密な緊張を生み、視線の交差や些細な言葉のやり取りが、不穏な感情の揺らぎを生み出します。
特にジュリアン・ムーアの演技が凄まじいのは、この複雑なキャラクターを一面的に描かない点です。母としての穏やかさと、過去の過ちに対するどこか曖昧な態度、そして自分の過去を「語る」ことに長けたパフォーマーとしての顔。そのどれもが一貫しながら、少しずつズレているのです。
彼女は、グレイシーの中にある自己正当化と防衛本能、そして無意識的な自己演出を繊細に織り交ぜます。彼女は常に笑顔を崩さず、日常生活を丁寧にこなしているように見えるが、何かが常に「演技」めいているーー。その芝居がかりを意図的に残すことで、彼女はグレイシーという人物が真実をどこまで語っているのか、観客に判断を委ねているのです。
その曖昧さを最後まで崩さない彼女の演技が、グレイシーという人物にリアルな重層性をもたせていると言っていいでしょう。
そして、人生そのものを物語化し、演じ切ろうとするかのようなグレイシーに対して、そのグレイシーの人生を演じるため、彼女自身に成り切ろうとするかのようなエリザベスーー。ナタリー・ポートマンの緻密で繊細な演技が、「演じる」という行為の不気味さを浮かび上がらせます。
「演じよう」とするあまり、声のトーンや話し方、ジェスチャーまでもがグレイシーそっくりになっていくさまは、まさにナタリー・ポートマンの独壇場。それは役作りの一環ではありますが、同時にアイデンティティーの侵食のようにも見えてくるのです。
この、まるで鏡合わせのような演技対決を見続ける観客は、やがて、「事件」と「純愛」は鏡合わせの関係である、ということに気づきます。
そうです。事件と純愛は紙一重‥‥。
そして卒業式の朝、「兄たちとのおぞましい話を信じないで」とエリザベスに告げるグレイシー。
「私の心はいつも安らかよ」
そう言って去っていくジュリアン・ムーアの曖昧な笑顔を見せられると‥‥、問われているのは「事件」か「純愛」かではない、という漠然とした感慨が湧いてきます。
彼らのことをどう見るか?
それによって問われているのは、私たち自身ではないのか。
私たちの「愛」が問われている‥‥?
振り返ってジュリアン・ムーアを見るナタリー・ポートマンの表情は、まるでそう告げているかのように見えました。
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