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『ワン・モア・ライフ!』レビュー☆もしもいつ死ぬかがわかったら?
イタリアのコメディーをご紹介します。
原題は『Momenti di trascurabile felicità』。イタリア語で、「取るに足らない幸せの瞬間」という意味だそうです。さて、どんな瞬間が描かれているのでしょうか?
- 『ワン・モア・ライフ!』
- 脚本
フランチェスコ・ピッコロ/ダニエーレ・ルケッティ - 監督
ダニエーレ・ルケッティ - 主な出演
ピエルフランチェスコ・ディリベルト(ピフ)/トニー・エドゥアルト(トニー)/レナート・カルペンティエリ - 2019年/イタリア/94分
※以下の記事は作品の魅力を紹介するため最小限のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。
☆あらすじ
舞台はシチリア島のパレルモ。
中年男パオロはバイクで仕事場から家に帰る途中である。彼の特技は、交差点の4方向の信号がすべて赤になる一瞬の空白の時間を使って、交差点を渡り切ること。つまり赤信号を突破することだ。
今日も果敢に挑戦するが、右側から信号無視で突っ込んできた車に撥ねられ、あっけなく死んでしまう。
天国への入り口の受付で、自分の人生が短すぎたと抗議をするパオロ。
長生きするために生前やっていた努力を数え上げ、全部無駄だったと嘆く。
それを聞いていた受付の役人が「?」となる。天国で使われている「人の寿命計算システム」に、パオロが毎日飲んでいたジンジャー入りのスムージーが入力されていなかったのだ。
入力が不充分だったので、寿命の計算にミスが生じた。
役人は、そう認めた。正しく計算できていれば、パオロが死ぬのはあのタイミングではなかったのだ。
上司と相談した結果、スムージーの分だけパオロの寿命を延ばすことが決まった。
92分。
それが、パオロが生き直すことを許された時間だった。
え? たった、それだけ? 5年とか10年じゃないの?
文句を言っても無駄だった。それに、寿命が延びないよりは、マシだった。
パオロは役人に付き添われ下界へ降りた。92分間の人生の延長戦をスタートさせるのだ。
人生の最後の時間にパオロが望んだのは、愛する家族と過ごすことだった。
今夜は家族4人で過ごさないか、なるべくいますぐ?
妻のアガタに早速提案してみるが、忙しいからと適当にあしらわれる。
遊びに行っている娘に早く帰宅するように言いたいが、パオロが携帯にかけても出てくれない。
アガタは息子を水泳教室に迎えに行く時間だというので、助手席に乗って2人で出かけたのはいいが、さっき自分が起こした事故のせいで道路は大渋滞‥‥。
延長戦の序盤からトホホな展開にへこむパオロ。
子育てや家事をアガタに任せきりにして浮気を繰り返してきた結婚生活‥‥。子供たちとちゃんと向き合おうとしなかった父親人生‥‥。
その結果、すっかりシラケきってしまった自分の家族‥‥。
ああ、それなのに、自分の人生は終わってしまった。いや、延ばしてもらった寿命も、もうすぐ尽きる。そこで本当に、自分の人生は終わる。
後悔と焦燥と。居ても立っても居られない、パオロだった‥‥。
☆人生の延長戦で気づくシンプルな事実
もしもいつ死ぬかがわかったら、あなたはどうしますか?
死んだ人間が生き直すチャンスをもらう。これ自体は特に目新しい手法ではありませんが、お気楽人生を送ってきた中年男の生き直しに立ち会うことで、ついつい自分の身に置き換えて考えてしまいます。
術中にはまる、とはまさにこのことです。
使い古されたと見える手法に、主人公パオロのダメダメぶりというスパイスが加わり、歴史を感じさせるパレルモの美しい街並みが、そこに彩りを添えます。
延ばされた寿命が92分。それに対して映画本編の長さが94分ですから、私たちはパオロの人生の延長戦をほぼほぼリアルタイムで観るということになります。
ただし、その間に過去の火遊びの数々や、無責任で自分勝手な振る舞いの数々など、彼のダメダメぶりがぽんぽんと回想され、いかにしてこの家族はいまのシラケ状態に陥ったのかが、自然と理解できる構成となっています。
逆に言えば、パオロのこれまでのお気楽人生が走馬灯のように映し出される、まさに人生のカウントダウンに立ち会うような94分間、と言うこともできます(ちなみに、この死ぬ間際に見ると言われる「走馬灯」ですが、脳波の研究から、実際に死を迎える人の脳内でそうした記憶を呼び覚ます活動が行われる、ということが最近わかってきたようです)。
先ほどの問いに戻りますが、パオロは家族との心の交流が欲しい、絆を確認したい、と奮闘を開始します。
え? あと92分しかないのに?
そう思うのですが、自分勝手なのにどこか人の良さが滲み出るパオロを見ていると、応援したくなってしまいます。
でも、所詮92分では無理なのです。普段から心通い合っている家族でない限り、92分で絆を確認しあって大往生なんて、ありえません。
残り20分となったところで「人生ゲーム」を始める展開には大笑いしましたが、案の定タイムアップとなり、監視役として付き添っていた天国の役人に引き剥がされて‥‥。
ところで、本作を観てモリゾッチは、数年前に我が家に起きたある出来事を思い出しました。
それは土曜の朝でした。
朝と言っても、昨夜の夜ふかしのせいで、昼に近い朝のことですが、妻のモリコッチが突然真顔で言いました。
「これ、皮膚ガンかな?」
見ると、彼女の左目の横の生え際あたりに、直径5ミリほどの黒っぽいホクロのような、アザのようなものがありました。
洗面所で髪を梳かしていて気づいたようでした。
「え? いつからあるの?」
「わからない。‥‥でも、昨日まではなかった。‥‥と思う」
「えー?」
確かに、それほど小さなアザではないので見逃すとは思えません。ということは、たった一夜にして、こんなものが‥‥。
それから2人で、ネットの検索を始めました。「ホクロ」「アザ」「シミ」などの検索語で出てくる写真の中に、2人同時に指差した写真がありました。
色と大きさが彼女の生え際にあるものと同じでした。形も、左右が非対称な長円形で、周辺部がギザギザしているところがとても似ていました。そして2人は、また同時に息を呑みました。
その写真には、「皮膚ガン」とキャプションされていたのです。
「医者‥‥に行ったほうがいいね」
そう言うのが、やっとでした。彼女も、すぐにうなずきました。
土曜の午後2時まで診察している皮膚科を探して、すぐに車で出かけました。病院の駐車場はいっぱいだったので、裏手の公園の横に車を停め、モリゾッチは乗っていることにしました。
ひとり車に残ることは、実はモリゾッチには少しだけ好都合でした。医師の診断を聞く勇気は、まだこのときにはなかったからです。
でも、それをひとりで聞くモリコッチの心境は‥‥。
とても長い時間が経ったと思いました。モリゾッチの腹はすっかり決まっていました。
会社に頼んで役職を変えてもらおう。なるべく長くモリコッチの側にいられるように。息子のモリオッチも入れた3人の想い出を、なるべくたくさん作れるように。
まだ4月だというのになんだか蒸し暑くて、車の窓を全開にしました。首筋を伝った汗を指で拭うと、自分の指の冷たさにドキッとしました。気がつくと、脇の下にもびっしょりと汗をかいていました。冷や汗でした。
彼女を失うなんて耐えらない。そのとき、ようやくはっきりと自覚しました。
彼女のいない人生を考えたとき、モリゾッチは恐ろしくてたまらなかったのです。
車に戻ってくる彼女の姿に気づいたのは、そのときでした。うつむき加減のその顔は、まるで笑っているように見えました。
「おかえり」
助手席に乗り込んだ彼女にかける言葉は、それ以外に浮かびませんでした。
深く息を吸ってから、彼女は口を開きました。
「あの、私、昨日髪を染めたのね、自分で」
こういうときには、人は日常的な会話がしたくなるものなのだ。モリゾッチはそう思いました。
「知ってた?」
「ん? ‥‥うん。あ、きれいに染まってるじゃん。美容院でやったみたい」
確かに、昨日帰宅したとき何か違和感を感じたのですが、彼女の髪がきれいな栗色になっていたことがその違和感の原因だとは、その時まで気づきませんでした。何か言ってあげるべきだった、と後悔しました。
「その染料だって」
「何が?」
「その染料が、ここに付いたんでしょう、って」
左目の横の生え際の辺りを指差しながら、晴れやかな笑顔を見せて、彼女はそう言いました。
「え? じゃ、い、色が付いただけ?」
「そう。先生が除光液みたいので擦ったら取れたの」
「えー」
まったく予想外の展開でした。
あれほど心痛めていたのに、何事もなかったとは。
帰りの車中はなぜか2人ともハイテンションで、家に帰ったら土曜日のやり直しをしよう、などと話していました‥‥。
あのとき公園の脇に停めた車の中でモリゾッチが考えたことは、本作のパオロが考えたことと同じでした。おそらく、診察を待つ間にモリコッチが考えていたことも同じだったのでは、という気がします。
大切なのは家族。
自分の死や家族の死を意識するとき、人は初めて、このシンプルな事実に気づくものなのでしょう。
☆取るに足らない幸せの瞬間
さて、そのシンプルな事実に気づいたパオロのその後はというと‥‥。
下界に降りてからちょうど92分後、彼は再びバイクにまたがり例の交差点に向かって疾走していました。物語冒頭の事故と同じ死に方をして、天国へ戻らなければならないようなのです。ひとつだけ違っていたのは、天国から付き添っていた役人が彼の背中にしがみついていることでした。
やがて信号が赤に変わり、フルスロットルで突っ込んでいったパオロ‥‥。
彼がその後どうなったかは、本編で確かめていただくのがいいと思います。
ちなみにモリゾッチ夫婦に何か大きな変化があったかというと、残念ながら何もありませんでした。少しだけ互いに優しくなったかな、という程度です。
しかし、まあ、そういうものかもしれません。
こうして時々あのとき自分が考えたことを思い出して、少しだけ家族に優しくする。それだけで充分、という気がしないでもありません。
そうして、本作が示唆しているように、「取るに足らない幸せの瞬間」をいっぱい積み重ねて歳を取っていけたら。そんなふうに、いまは感じています。
(本記事中のエピソードは、「家族の死を意識したときにどんなことを考えたか」を紹介する目的で挿入したものです。ガンにならなくてよかった、ということを言いたいわけではありません。ガンの闘病経験のある方、並びに現在闘病中の方、くれぐれもお気を悪くなさいませんように。万が一不愉快な思いをされたようでしたら、お詫び申し上げます)
というわけで、皆さん、赤信号と染料にはくれぐれも注意しましょうね。
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