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『オリエント急行殺人事件』レビュー☆絶対的正義なるものは存在するのか?
アガサ・クリスティの作品は聖書とシェイクスピアの次によく読まれている、と言われます。今回は、そんな「ミステリーの女王」が1934年に発表した『オリエント急行の殺人』を原作とする映画をご紹介します。
- 『オリエント急行殺人事件』
- 脚本
マイケル・グリーン - 監督
ケネス・ブラナー - 主な出演
ケネス・ブラナー/ペネロペ・クルス/ウィレム・デフォー/ジュディ・デンチ/オリヴィア・コールマン/ジョニー・デップ/ミシェル・ファイファー/デイジー・リドリー - 2017年/アメリカ/114分
※以下の記事は作品の魅力を紹介するため最小限のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。
☆あらすじ
エルサレムでとある事件を解決した私立探偵のエルキュール・ポアロ(ケネス・ブラナー)は、イスタンブールからオリエント急行に乗車する。ロンドンで次の依頼人に会うまでの間、とりわけこの豪華列車の旅が、多忙を極める探偵にとってしばしの休息となるはずだった。
だがアルプスに差し掛かった早朝、雪崩によって軌道を塞がれて列車は立ち往生する。騒然となる車内。その中で、美術商エドワード・ラチェット(ジョニー・デップ)の死体が、彼の個室から発見される。
睡眠薬によって眠らされ、刺殺されたようだった。
就寝時間帯は車両間のドアには鍵が掛けられていたので、ラチェットの個室に入ることができたのは、同じ車両に乗り合わせた乗客だけだった。
殺人犯はこの中にいる。
ポアロは確信した。
さっそく聞き取り調査を始めるポアロ。
宣教師(ペネロペ・クルス)、大学教授(ウィレム・デフォー)、公爵夫人(ジュディ・デンチ)とそのメイド(オリヴィア・コールマン)、未亡人(ミシェル・ファイファー)、家庭教師(デイジー・リドリー)。そのほかに、被害者の執事と秘書、医師、伯爵夫妻、自動車のセールスマンに当該車両の車掌を加えた13人が容疑者であった。
捜査を進めると、被害者ラチェットの正体が明らかになる。
彼はかつて世間を騒がせた富豪令嬢誘拐殺害事件の犯人なのだった。そして彼のもとにいくつかの脅迫状が届いていたことも明らかとなった。
殺害の動機は、ラチェットの正体を知る者による復讐か?
だが聞き取りを重ね、さらに捜査を進めても、犯人像は絞り込めなかった。
相変わらず、13人の容疑者すべてにラチェットを殺害するチャンスがあった。調べを尽くしても、そのことに変化はなかった。彼ら全員がラチェットを殺害可能であり、つまり、誰が犯人でも不思議はなかった。
これは奇妙な事件だ、とポアロは思った。
これほどまでに犯人が特定されない事件は、ポアロにとって初めてのことだったのだ。
珍しくポアロは弱気になり、そして焦っていた。
軌道はおおむね復旧し、列車の運行再開のときが近づいていたのだった‥‥。
☆一番怪しい男が真っ先に死ぬ
シドニー・ルメット監督による同名の映画が1974年に製作されていますので、見比べてみるのも面白いと思います。ちなみに、こちらはアルバート・フィニーがポアロを演じ、アンソニー・パーキンス、ショーン・コネリー、ローレン・バコール、イングリッド・バーグマンら、往年の銀幕のスターたちの共演が楽しめます。
さて、豪華俳優陣による共演という点では、本作もまったく引けを取りません。
オリエント急行に乗り込む乗客たちの紹介カットを見ると、いずれ劣らぬ曲者揃い、という言葉が頭に浮かんできます。個性的で、ミステリアスで、いわくありげな人たちばかりが乗り合わせて、いかにも何かが起こりそうな雰囲気を醸し出します。
さながら名優たちの演技合戦の様相を見せる本作にあって、まず最初に光を放つのは被害者のラチェットを演じるジョニー・デップでしょう。
謎めいた役どころに命を吹き込み、独特の野卑な魅力と不穏な雰囲気をまとうことに成功しました。一番存在感のある、複雑で不気味なキャラクターが突然死んでしまう。観客を引き込むのに、これほど有効な手はほかにあるでしょうか?
☆容疑者はいずれ劣らぬ曲者揃い
ミシェル・ファイファーといえば、『イーストウィックの魔女たち』(1987年)、『危険な関係』(1988年)、『恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ』(1989年)などでお馴染みの実力派ですが(最近の人には『アントマン&ワスプ』のジャネットと言った方がいいかもしれませんね)、本作では旅行好きの謎めいた未亡人として、内に秘めた複雑な感情を見事に表現しています。
ペネロペ・クルスの宣教師もかなりの曲者です。
折に触れて聖書の一節をつぶやいたりしますが、その鋭い目つきを見ていると、本当は神など少しも信じていないのではないか、という妄想を掻き立てられます。
美しい顔には不釣り合いな空手家のような拳ダコを見せられると、ますますどういう人物かわからなくなっていくのです。
007シリーズの3代目「M」として知られるジュディ・デンチは、さすがの貫禄で威厳に満ちた公爵夫人を演じました。彼女の存在感と豊かな表現力によってキャラクターに一層の深みが加わり、背後にあるミステリアスな何かの存在が浮かび上がってきます。
ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーに参加して多くの舞台で経験を積んだキャリアが、短いシーンの中に遺憾なく発揮されていると感じます。
そのメイドを演じるのは、オスカー女優オリヴィア・コールマン。
アカデミー主演女優賞を獲得した『女王陛下のお気に入り』(2018年)もまだ記憶に新しいところですが、その後もアンソニー・ホプキンスと父娘役で共演した『ファーザー』(2020年、レビュー記事はこちら)など、印象深い仕事が続いています。
このメイドがただのメイドであるはずがない。そんな雰囲気を全身から漂わせます。
ウィレム・デフォーの大学教授は、早い段階で大学教授ではないとポアロに見破られてしまいます。しかしまったく悪びれることなく次の嘘をつき、またすぐに見破られてしまいます。
そんな得体の知れないキャクターを、幅広い演技力で知られる彼ならではの軽妙なタッチで演じて、観客を深い謎の淵へと誘(いざな)うのです。
彼は果たして、何を隠しているのでしょうか?
そして『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(2015年)でヒロイン・レイ役に抜擢されて話題を呼んだデイジー・リドリー。
映画の序盤、ポアロがイスタンブールへ着くまでの船旅で偶然いっしょになり、短い世間話の中で地理の教師だと見抜かれ唖然とします。屈託のない笑顔の裏に途方もない意志の強さを秘めていそうで、訳あり感が半端ない女性です。凛とした佇まいの中に深い決意を感じさせ、好演です。
☆女王と才人が仕掛けた解けないパズル
そして物語の中心は、風変わりな性格と飛び抜けた洞察力をもつ希代の名探偵。演じるのはもちろん、監督兼任の才人ケネス・ブラナーです。
端正な顔立ちを隠すように巨大な口髭でデフォルメされたそのキャクターは、従来のポアロ像よりも躍動的でスマートな印象を与えることに成功しています。
彼もまた、アガサ・クリスティと同じイギリス生まれ。
ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー時代に多くの舞台を経験していますが、映画との関わりも大変深く‥‥、長編・短編を取り合わせ、俳優・監督のみならず、脚本、プロデューサーまで、実に多彩な活躍を見せてきた人です。
まさに「才人」という言葉にぴったり当てはまるような、そんなキャリアの持ち主なのです。
「ミステリーの女王」の原作に挑む、映画・演劇界の「才人」というわけですね。
ちなみに、アカデミー賞で個人として7つの部門にノミネートされた経験があるのはケネス・ブラナーだけだそうです(同時にではなく通算でですが、主演男優・助演男優・短編映画・監督・作品・脚本・脚色の各部門です)。
その才人ぶりを物語るエピソードと言えるのではないでしょうか。
主役としてこの豪華俳優陣のアンサンブルをリードしていく手腕はさすがですが、監督としても、巧みで洗練された語り口で観客を魅了し、決して飽きさせません。
まず物語の舞台となるオリエント急行の車両内部の緻密な再現に力を注ぎ、その上で移動ショットや天井からのショットなど、車両内の狭い空間で展開されるシーンにメリハリをつけて提示することで、物語の深みへと観る者を引き込んでいきます。
沿線の風景描写も美しく、列車の外観、内装、登場人物‥‥。まるでその時代の絵画を観るような感覚に襲われます。
また視覚的に洗練された演出にとどまらず、時に列車の屋根に上がり、時に列車の下の巨大な橋の中を駆け下りたり‥‥。物語のテンポとリズムを巧みに操り、スリリングで謎に満ちた体験を提供してくれます。
私たちはその体験に没入しながら、ひとつの大きなパズルの中にいる自分を発見します。
解けそうで解けないパズル‥‥。
どうすればこの謎は解けるのか?
そのことばかりが、気になっていくのです。
☆絶対的正義なるものは存在するのか?
さて、オリエント急行の乗客たちに向かって、「おそらくは世界で一番の探偵です」と自己紹介してしまうほど自信満々のポアロですが、物語の序盤から、折に触れてモノローグで自らの信条を語っています。
それによれば彼は二元論者。
つまり、この世界は善と悪とのせめぎ合い。善が勝ち、正義が実行されるために力を尽くす。それが自分の役割だ、というわけです。
いかにも、自信満々のポアロらしい世界観です。
いかなるときも善が勝ち、この世に正義が存在することを証明しなければならない。
彼は、そう考えているのです。
数々の難事件を解決してきた実績が、そこからくる自信が、彼をそのような境地に導いたのかもしれません。
本作の終盤、しかし彼のその世界観は、音を立てて崩れ始めることになります。
この事件の場合、何が善で、何が正義なのか?
そもそも正義とは‥‥、絶対的正義なるものは存在するのか?
片方から見た正義は、もう片方から見れば必ずしも正義とは言えない。
正義とはそういうもの、つまり、相対的なものに過ぎないのか‥‥?
ようやく事件の全容を理解した彼は、こんなふうに自問したに違いありません。
正義が相対的なもので、双方にそれぞれの正義があるとするなら、彼はいま、どちらの正義を取るべきなのでしょうか?
これ以上書くと結末にたどり着いてしまいそうですので、類似するケースを最近の事件からピックアップしてみます。
「プリゴジンの乱」というのが将来世界史の教科書に載るかどうかはまだわかりませんが、起こったこととその収束までのスピードの速さで世界中を驚かせたことは、間違いありません(この記事は、2023年7月9日に書いています)。
もちろん、これはロシアのプーチン政権に対して民間軍事会社ワグネル代表のプリゴジン氏とその部下たちが起こした、ストライキにも似た反乱・行軍のことです。
この非常に短い一連の出来事の中でモリゾッチが最も重要だと考えるのは、プリゴジン氏がSNSを通じて次のような声明を出したことです。
ロシアがウクライナ領土で展開している「特別軍事作戦」は、ウクライナがNATOと手を結んでロシアを侵略しようとしたためだと言われているが、そのような事実はなかった。
つまりプリゴジン氏は、プーチン政権のウクライナへの侵攻は間違いだったと、事実上認めたのです。
ニュース番組などでの専門家の見方は、プーチンはこの一言を絶対許さないだろう、という点で一致しているようでした。一見穏便な処置がなされたように見えるこの事件ですが、いまロシア国内では、プーチン政権による反プリゴジン・キャンペーンが展開されているようです(本人の留守宅が公開され、札束や金塊などの映像がニュースで流されているとのこと)。
プーチンとプリゴジン、いったいどちらに正義があるのでしょうか?
もちろん、どちらにも正義はない、というのが大きな観点から世界中が思うことでしょうけれど‥‥。
しかし、ことを例の声明に限って見れば、いったい正義はどちらにあるのかと、心あるロシア国民なら気になるところだと思うのですが。
問題は、まさにそこにあるのです。
正義は相対的なもので、双方にそれぞれの正義があるなら、自分はどちらの正義を取るのか?
心あるロシア国民は、苦しみ、悩み、頭を使い、自分で決めたいだろうと思うのですが‥‥。
問題は、彼らにそうする機会は訪れない可能性が高い、という点なのです。
よく知られている通り、共産党一党独裁の中国では、共産党にとっての正義が中国にとっての正義で、すなわち中国国民にとっての正義です。国民に選ぶ権利はありません。
これは「絶対的な正義」です。
一党独裁ではなく、ロシアのように形式的な選挙が行われる事実上の独裁国家でも、事態は大きく変わりません。有力な政敵は投獄され、独裁者に投票するしかなくなるので、事実上選ぶ権利が奪われています。
そこでは独裁者にとっての正義が「絶対的な正義」なのです。
聡明な探偵エルキュール・ポアロがこの事件で気づいたように、正義が本来相対的なものであるということを私たちは知っています。だからこそ私たちのシステムは、自分たちの正義を、誰かに決めてもらうのではなく、自分たちで決めるようにできているのです。
多数決という方法によって。
そのために私たちに保障されているのが、選ぶ権利です。
誰かの勝手な「正義」を押し付けられないように、この権利を、このシステムを守っていかなければならない。
最近のさまざまな出来事を見るにつけ、モリゾッチは強くそう思うのです。
なんだか、思いのほか力説してしまいましたが‥‥。
しかし、1934年に『オリエント急行の殺人』を発表したとき、1世紀近くあとの東アジアの片隅に、この小説の映画化作品を観て民主主義の尊さを噛み締める奴が出てくるなんて、さすがのアガサ・クリスティも推理できなかったでしょうね。
☆ミステリー史上に残る「名推理」
というわけでこの事件、意外な結末を迎えます。
衝撃的な結末と言っていいかもしれません。
名探偵ポアロは、果たしてどのような結論を下したのでしょうか?
本作のラストで明らかになるのは、まさにミステリー史上に残る「名推理」だと思います。
原作を未読の方には、まずこの映画を先にご覧になることをお勧めします。
ケネス・ブラナー率いる豪華俳優陣が、ポアロの「名推理」を味わうための極上の列車旅行に、あなたを連れて行ってくれることでしょう。
さあ、行ってらっしゃい。どうぞ、楽しい旅を!
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