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『タクシードライバー』レビュー☆正義はどこにあるのか?

出典:本作ポスター画像より
その他の森

アメリカン・ニューシネマ最後期の傑作として人気の高い映画をご紹介します。
『ゴッドファーザー PART II』(1974年)と並んで、ロバート・デ・ニーロの出世作と称される作品です。


  • 『タクシードライバー』
  • 脚本
    ポール・シュレイダー
  • 監督
    マーティン・スコセッシ
  • 主な出演
    ロバート・デ・ニーロ/ジョディ・フォスター/シビル・シェパード/ハーヴェイ・カイテル
  • 1976年/アメリカ/114分

※以下の記事は作品の魅力を紹介するため最小限のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。

☆あらすじ

元海兵隊員のトラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)は、極度の不眠症に悩まされ、ニューヨークの汚いタクシー会社で深夜勤務のドライバーとして働くことになった。
この眠らない大都会の夜を、眠れない男がタクシーで徘徊する日々。売春、ドラッグ、犯罪‥‥。欲望に取り憑かれた者たちと彼らの財布に群がる者たちとが入り混じり、荒廃した夜の闇にうごめいていた。

ボロアパートに住み、ポルノ映画館が友だちの孤独なトラヴィス。彼は、いつしかこう夢想するようになっていた。
この街の汚れたクズどもを、いつか雨がきれいに洗い流してくれる。

そして彼は、街である女に一目惚れする。次期大統領候補の選挙事務所で働くベッツィー(シビル・シェパード)だった。勤務中のタクシーを選挙事務所の前に停めて、ガラス越しに彼女を見つめ続け、迷惑がられたりした。
思い切って事務所へ入り彼女に話しかけ、奇跡的にデートの約束を取り付けるが、そのデートであろうことか彼女をポルノ映画に連れて行ってしまい‥‥彼女は激怒して、それっきりになった。

このままではいけない。思い悩んだ彼は、タクシードライバーの先輩に相談してみた。
ここを出て、何かデカいことをしようと思うんだが‥‥、その、つまり、いろいろ考えはあるんだが‥‥。
何を言いたいのかわからない彼に対して、先輩は真摯にアドバイスをした。
思い悩むな。どうせ俺たちは負け犬だ。タクシードライバーにできることなんか何もない。

そんなときトラヴィスは、12歳の娼婦アイリス(ジョディ・フォスター)と知り合う。スポーツと呼ばれる男(ハーヴェイ・カイテル)の言うままに、客を取らされている家出少女のアイリス。
トラヴィスは、するべきことを見つけたと思った。

銃を何丁も買い集め、射撃の訓練に精を出し、肉体の強化に取り組んだ。
自室の鏡に向かって銃を構え、不敵な笑みを浮かべるトラヴィスだった‥‥。

出典:ポスターより

☆アメリカン・ニューシネマとは

アメリカン・ニューシネマとは、1960年代後半から1970年代中盤にかけて発表された、社会逃避的で反体制的な若者の生き様を描いた作品群の総称です。
その背後には泥沼化したベトナム戦争の影響によるアメリカ社会の歪みがあり、特に徴兵対象となる若者層に蔓延していた政治への強烈な不信、そこからくる社会全体への諦念、無力感、厭世観などがあったとされます。

代表作を見てみましょう。
1967年の『俺たちに明日はない』と『卒業』に始まり、1969年は『明日に向かって撃て!』と『イージー・ライダー』、さらに『いちご白書』(1970年)、『時計じかけのオレンジ』(1971年)、『スケアクロウ』(1973年)などが続きます。
いずれ劣らぬ名作が並び、アメリカ映画史に輝かしい足跡を残した作品群であったことがわかります。

さて、その最終盤に登場した本作ですが、まず夜のニューヨークを走るタクシーのカットがなんとも印象的です。
マンホールから立ち昇るニューヨーク特有の白い蒸気。
それを切り裂くタクシーのヘッドライト。
黄色いボディ。
色とりどりのネオンサイン。
娼婦たちの白い脚。
それが吸い込まれていく暗い闇‥‥。

この猥雑な光景は果たして現実のニューヨークなのか、はたまた、この街を彷徨う孤独な青年の心の中を写したものか。

そんなふうに、この物語は始まっていきます。

一見すると気弱そうな薄ら笑いの中に、底知れぬ狂気を感じさせる青年トラヴィス。
強烈な不眠症に悩む彼は、タクシー会社の面接で軍歴を問われ、1973年5月に海兵隊を名誉除隊したと答えています。
記録によれば、この年の1月にニクソン大統領によってベトナム戦争の終結が宣言され、3月にはベトナムからの米軍の撤退が完了しています。

公開当時の観客は、この軍歴に関するセリフによって、トラヴィスがベトナムからの帰還兵であり、戦地での体験が原因で不眠症に悩まされている青年だと理解したことでしょう。

『ジョーカー』(2019年)の元ネタと言われることも多い本作ですが、確かに、社会から疎外され続けた孤独で不器用な青年が陥っていく狂気と、その背後にある社会の不条理‥‥、突き詰めていくと、主人公は社会の歪みの中に潜んでいる狂気をただ映し出しただけの、敏感で繊細な鏡のような存在なのか‥‥、といった感慨に襲われるという点で、2つの作品はよく似ています。

社会への嫌悪。
世の中への不満。
世界への怒り。

両作品の底流にあるのは、社会から疎外された若者の心の中に芽生え、育っていく、そうした負のエネルギーへの理解であり、畏怖であり、それを侮ってはいけないという、社会への警告だと言えるでしょう。

またそれと同時に、この2つの作品を観ると、人はどうしても「正義」について考えないわけにはいかなくなります。つまり、両作に共通する隠されたもうひとつのテーマ、それが「正義」なのだと思います。

あるいは、「正義の不在」と言った方がいいかも知れませんが。

出典:ポスターより

☆正義の不在

正義はどこにあるのか?
本作の中盤を過ぎた頃、そんな疑問が急速に胸の中に膨らんでいくことに気づきます。

トラヴィスが12歳の家出少女アイリスを家に帰るよう説得するシーンは、象徴的です。
家には何もないから出てきたんだと言うアイリスに、親の家に帰って学校に通うべきだと主張するトラヴィス。すこぶるまっとうな助言です。

しかし、アイリスは聞く耳を持ちません。
「お説教が好きみたいだけど、あなたは間違いを犯したことはないの?」
という態度です。
するとトラヴィスはこう続けます。
「あんな男のために身体を売ってなんになるんだ?」
あんな男というのは、スポーツという通称で呼ばれるアイリスのヒモです。アイリスは彼と付き合っているつもりですが、明らかに彼女は利用されているだけなのです。トラヴィスは徐々に熱を帯びてきます。
あいつは人間じゃない。ゴミだ。寄生虫だ。始末しなきゃならん。

アイリスは呆れ顔で、彼に暴力を振るわれたこともないし、彼から逃げようと思ったこともない、自分と彼は馬が合うのだ、と説明します。しかし、あんな奴を許しておいてはいけない、地球の汚物だ、と言うトラヴィスとはどこまでも平行線です。

やがてトラヴィスは、自分はただのタクシードライバーではない、と言い出します。タクシーはパートだ、俺には他にやるべきことがある。
それを聞いたアイリスは吹き出してしまいます。そして、こう言います。
あなたと私、おかしいのはどっち?

12歳は家にいて、学校に通うべき。それはまったく正しいと思います。でも、その正しい考え方から始まったトラヴィスの説教は‥‥。
最後のアイリスの質問には、こう答えたくなってしまうのです。
2人ともおかしい。

正義はどこにあるのか?

この作品には、ベッツィーたち選挙事務所のボランティアも、それから大統領候補の政治家本人も描かれていますが、彼らは票読みをしたり、ポスターやビラのキャッチフレーズのことで忙しく、猥雑な都会の夜に象徴される社会の歪みについて心を痛めているようには、とても見えません。この世界で起きている理不尽な出来事の数々、社会から疎外され孤独に悩む青年のこと、12歳の家出娘のことなど、気にかけている余裕はなさそうです。

正義はどこにあるのか?

タクシードライバーと娼婦と政治家とボランティア。
お気づきかも知れませんが、私たちの世界は大体この4種類の人間でできているのです。
安月給で真面目に働くしかない庶民の代表がタクシードライバー。
真面目に働くのは馬鹿らしいと、庶民の稼いだ金をあてにして歓楽街でフラフラしている人たちの代表が娼婦。
政治家はこの世界の支配階級、少数のエリートの代表です。
そして、ボランティア。彼らはエリートを目指している若者ですが、ごく一部を除いて、結局庶民の仲間入りをすることになります。

正義はどこにあるのか?

どこにもない。
それが、この映画の答えです。

この世界のどこにも、正義はない。
1976年のアメリカ社会の現状を、スコセッシ監督はこのように切り取ってみせたのです。

出典:ポスターより

☆この国はどこへ向かおうとしているのか?

トラヴィスは結局、スポーツたちを本当に「始末」してしまいます。
その銃撃シーンが衝撃的であるため、この作品を残虐な映画だと捉えた人も多く、また逆にクレイジーで格好いい映画だと支持する声も多かったようです(あくまで個人の感想の話です。多様な意見と感想で、世界は成り立っています)。

しかし、このトラヴィスの凶行が「狂ってる」とすれば、その最大の理由は、アイリスやスポーツに対する想像力の決定的な欠如にある、と思うのです。

アイリスについて言えば、両親の家にいることでは満たされない何かが彼女の中にある、という視点がトラヴィスには欠けています。たとえそれが彼女のただの思い違いであったとしても、そこを解決しないで物理的に家に戻しても、また同じことになりかねません。
スポーツにしても、彼のやっていることは確かに最低です。でも、だからといって「始末」していい理由があるでしょうか? 彼には家族があるかも知れません。止むに止まれぬ事情があって、一時的にいまの方法で生活の糧を得ているのかも知れません。

12歳は家にいて、学校に通うべき。
この正しい考え方から始まったトラヴィスの凶行は、アイリスの仕事場を、血みどろの凄惨な現場に変えてしまいます。
それはまるで、泥沼化したベトナム戦争を再現しているかのようです。正しい考え方から始まった軍事介入が、ベトナムのジャングルを血みどろの凄惨な現場に変えてしまった、あの戦争を。

正しい行いであったはずなのに。
正しい戦争であったはずなのに。
アメリカは正しい国であったはずなのに。
それなのに‥‥。

あの戦争に正義はあったのか?
あの戦争が終わったいま、この国のどこに正義はあるのか?
この国は、どこに向かおうとしているのか?

スコセッシ監督は、夜の街を埋め尽くす無数のタクシーの車列を写したカットで、この作品を締めくくりました。
正義がどこにもないこの国で、社会への不満を抱えた庶民は、一体どうすればいいのか?
そう問いかけているように感じます‥‥。

さて、隆盛を誇ったアメリカン・ニューシネマですが、1970年代中盤までの作品群と言われるように、本作以降は徐々に下火となっていきます。
カンヌ国際映画祭でパルム・ドール(最高賞)を受賞している本作ですが、同じ年のアカデミー賞ではノミネートのみで、受賞は逃しました。本作を押しのけてこの年のアカデミー作品賞と監督賞に輝いたのは『ロッキー』(1976年)だったのです。そして翌年には、『スター・ウォーズ』(1977年)が発表され、大ヒットを記録することになります。

愛と正義を全面に出したわかりやすい娯楽作品の登場で、アメリカ映画はまた新しい時代に入っていきます。『スター・ウォーズ』第1作は後に「新たなる希望」という副題を冠したのですが、それまでのアメリカン・ニューシネマと違って、新しい娯楽作品は国民に「新たなる希望」を提供するという、まさに象徴的なサブタイトルとなりました。

時代はこうして移り変わっていきますが、1976年のアメリカ社会の現実を切り取った映画として、『タクシードライバー』の残した功績が色褪せることはありません。
そして移り変わるといえば、2022年のいま、ウクライナで行われている戦争に正義はあるのかと、ロシア国内から充分に声を発することができない(それが許されない)現実が、もどかしくてなりません。

自分たちの国に正義はあるか?
自分たちの国はどこへ行こうとしているのか?
映画でそう問いかけることができる(許されている)体制がどれほど尊いものか、本作が教えてくれている気がします。

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モリゾッチ

モリゾッチ

10代からの映画熱が高じて、映像コンテンツ業界で20年ほど仕事していました。妻モリコッチ、息子モリオッチとの3人暮らしをこよなく愛する平凡な家庭人でもあります。そんな管理人が、人生を豊かにしてくれる映画の魅力、作品や見どころについて語ります。

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