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『フェイブルマンズ』レビュー☆特殊な家族の普遍的な物語
スティーヴン・スピルバーグ監督が、映画界に入るまでの自らの半生を、家族にスポットを当てて描いた物語。「この映画は例え話ではなく、私の記憶なのだ」と監督は語っています。
- 『フェイブルマンズ』
- 脚本
スティーヴン・スピルバーグ/トニー・クシュナー - 監督
スティーヴン・スピルバーグ - 主な出演
ガブリエル・ラベル/ミシェル・ウィリアムズ/ポール・ダノ/セス・ローゲン/デイヴィッド・リンチ - 2022年/アメリカ/151分
※以下の記事は作品の魅力を紹介するため最小限のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。
☆あらすじ
サミー・フェイブルマン(ガブリエル・ラベル)は、ニュージャージー州に住むユダヤ人一家の長男。コンピューター・エンジニアの父(ポール・ダノ)と元ピアニストの母(ミシェル・ウィリアムズ)、祖母や妹たちと暮らしていた。
両親とともに初めて観た映画『地上最大のショウ』(1952年)の列車の激突シーンに心奪われた幼い日のサミー。母の計らいで、列車の模型を激突させて父の8ミリカメラで撮影するという遊びに没頭する。
やがてサミーは、8ミリ撮影と編集に夢中の映画少年に育っていった。
しばらくすると、一家は父の転職先の大企業があるアリゾナに引っ越すことになるが、ここで一悶着が起きる。父の親友で仕事のパートナーであったベニー(セス・ローゲン)は残していくというのだ。
いつも一緒に過ごしてきた家族も同然のベニー‥‥。母が激しく反応し、「新しい会社が彼を要らないというなら、あなたが雇えば」と言った。フェイブルマン家の誰にとっても、確かにベニーはそういう存在だった。
結局父が転職先に掛け合ってベニーと一緒に転職することになり、一家とベニーは新天地アリゾナでまた家族同然の日々を過ごす。
高校生になったサミーの映画熱はますます盛り上がり、友達を集めて戦争映画を撮ることに熱中し、映画監督への夢を膨らませていく。
そんなある夏、ファミリーキャンプの記録を8ミリに収めたサミーは、編集作業中にあることに気づいてしまう。
妹たちを撮影したカットのバックで、母とベニーが抱き合う姿が偶然写っていたのだった。
折りしもさらに大きな企業への父の再転職が決まり、カリフォルニアへ引っ越す日が近づいていたのだが‥‥。
☆映画の申し子の自伝的映画
1970年代に登場し、80年代、90年代と映画の歴史に燦然と輝くヒット作を連発したスティーヴン・スピルバーグ。その名前を知らない人を探すのは、現代社会ではちょっと難しいとさえ思えるような存在ですね。
『ジョーズ』(1975年)、『未知との遭遇』(1977年)、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年)、『E.T.』(1982年)、『ジュラシック・パーク』(1993年)などの監督を務め、プロデューサーとしても『グーニーズ』(1985年)、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ(1985年〜1990年)などを世に送り出したその仕事ぶりは、まさに「映画の申し子」そのもの。
両親が離婚していて、学生時代からハリウッドのスタジオに出入りし、ジョン・フォード監督と顔見知りになった‥‥という成功物語のかけらのようなエピソードは、特段の映画ファンでなくても、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
そんなスピルバーグ監督のいままで語られてこなかった家族の物語‥‥。
でもその前に、ジョン・フォード監督との出会いについて、少しだけ。
本作の終盤にその場面は描かれています。主人公サミーはテレビ映画のプロデューサーに案内され、ジョン・フォード監督のオフィスへ。『駅馬車』(1939年)、『静かなる男』(1952年)などのポスターを見て圧倒され‥‥。
という具合ですが、実はこの出会い、20世紀後半のアメリカ映画の流れを考えると、とても感慨深いものがあります。
というのも、現実の映画業界では、ちょうどこの頃ひとつの新しい流れが生まれ出ようとしていたからです。
ジョン・フォード作品に代表される西部劇や冒険活劇といったエンタテインメント性の高い映画は多くのアメリカ人を魅了し、スピルバーグ少年も多大な影響を受けたことは確かだと思いますが、米ソ冷戦からベトナム戦争の泥沼化へと移りゆく時代の中で、少し違う気分の作品が求められるようになっていったのです。
アメリカン・ニューシネマ‥‥。
そう呼ばれる作品群の登場です。
1967年の『俺たちに明日はない』と『卒業』に始まり、1969年は『明日に向かって撃て!』と『イージー・ライダー』、さらに『いちご白書』(1970年)、『時計じかけのオレンジ』(1971年)、『スケアクロウ』(1973年)などが続き、さらに最後期の『カッコーの巣の上で』(1975年)、『タクシードライバー』(1976年、レビュー記事はこちらから)へ‥‥とタイトルを並べるだけで、アメリカ映画史に輝かしい足跡を残した作品群であったことがわかります。
これらアメリカン・ニューシネマは、1960年代後半から1970年代中盤にかけて発表された、社会逃避的で反体制的な若者の生き様を描いた作品群、といった括られ方をしますが、それはつまるところ、夢と希望にあふれた娯楽作品としての映画に飽き足らなくなった人々の‥‥、政治や社会への不信感とそこからくる無力感、世の中への嫌悪感や諦めなど、当時のアメリカ社会に溜まっていたいわばマイナスの気分を色こく反映した映画作品であったわけです。
そして時代は巡り‥‥。
本作で描かれるサミーとジョン・フォード監督との出会いからおよそ10年後の1976年は、映画の世界に再び新しいうねりが起きることを予感させる年になりました。
アメリカン・ニューシネマの系譜を引き継ぐ『タクシードライバー』はもちろん大傑作でしたが、この年のアカデミー作品賞と監督賞に輝いたのは『ロッキー』だったのです。
そして翌1977年、『スター・ウォーズ』と『未知との遭遇』が大ヒットします。
愛と正義を全面に出したわかりやすい娯楽作品の登場で、アメリカ映画はまた新しい時代に入っていきます。ジョン・フォード流の、しかしSFXやデジタル処理の進化を味方につけて、ハリウッドに新しい娯楽映画の時代を切り開いたのは、もちろんジョージ・ルーカスとスティーヴン・スピルバーグの2人でした。
そこから90年代までのスピルバーグの活躍は上述の通り。
20世紀後半のそのまた後半の25年間、アメリカ映画、いや世界の映画をリードし続けたのが、映画の申し子、スピルバーグなのです。
娯楽映画の巨匠との出会いが、彼にどんなインスピレーションをもたらすことになったのか?
まずは家族の物語から、見ていきたいと思います。
☆心のままに生きるDNA
サミー少年が人生初の映画鑑賞をしたのは、クリスマスが近づいた12月のこと。電飾など色とりどりの飾りを付けた家々を横目に見ながら、なんの飾りもない殺風景な家にサミー親子の車は帰っていきます。
ユダヤ教のハヌカーは「光の祭り」とも言われ、ちょうどクリスマスと同じ時期になりますが、ロウソクの灯りで静かに祝い、派手な飾り付けはご法度。子供たちにはプレゼントが渡されますが、それはサンタさんからではなく、パパやママから。
プレゼントにほかの家のような電飾飾りがほしい、とサミーは言ってみますが、母親に笑い飛ばされてしまいます。それで彼が思いついたのが列車の模型。初めて観た映画の印象が、強烈だったのですね。
映画といえば、帰りの車の中でこんなやり取りがあります。
すっかり無口になってしまった息子を心配した父が言います。
「怖がりの子に映画はマズかったかな?」
母はそれに対して、「この子は想像力が‥‥」と言いかけますが、サミーがすかさず抗議します。
「変な言い方しないで」
何気ない会話の中に3人の関係性が見事に表されています。その後のストーリーを見れば、このとき受けた印象の通りに親子関係が進んでいくことに気づきます。
父と母と息子の関係を、短く象徴的に描いたシーンです。
父親は物事を客観的に捉える能力がある。
思いやりにあふれた優しい人だが、客観的で論理的で、具体的な役に立つことが好きな人。
母親は正反対とも言える性格。
思い込みが激しく、芸術的で情熱的で楽しいことが好きで、細かいことを気にしない人。
サミーは、どちらかといえば母親の方が好き。
父親は自分を理解してくれない。それに対して母親はいつも自分の味方。そんな気がしている。
せっかく買ってもらった列車の模型を映画のように衝突させて遊んだとき、「パパの8ミリカメラで模型の衝突を撮影して遊びなさい。ただし、パパには内緒よ」と言ったのは母親でした。
彼女には、息子が「衝突」を必要としていることが理解できたのです。彼は何かを自分の思い通りにしてみたいのだ、と。
だからその遊びを禁じませんでした。
そして模型が壊れるまで衝突を繰り返すことがないように、フィルムに撮って何度も見返すことを教えたのです。
これが、サミーが「映画を撮る」喜びを知るきっかけでした。
ミシェル・ウィリアムズ演じる母親ミッツィは、サミーの人格形成に最も影響を与えた人です。大らかで愛情深くて、心の満足を何より優先する人。ときに突飛に見える行動も、心に従う彼女の流儀。よくしゃべり、よく笑い、一家の中心。そんな太陽のような存在でありながら、心のままに奔放に生きたひとりの女。
彼女の自然体の好演が、そんな役どころにリアリティを与えています。
家の近くに竜巻が発生したとき、とっさに子供たちを車に乗せてそれを見に行くミッツィ。父親のバートは意味がわからず、呆然と見送るだけです。
ファミリーキャンプの夜、突如踊り始めたミッツィ。ベニーが点けたヘッドライトの灯りでドレスの中が透けているのですが、それを知りながらお構いなしに踊り続ける姿が印象的です。
そんな母親の影響を受けて多感な青春期を送るサミーですが、母親とベニーの一件は、彼女のことが大好きだったが故になおさら大きく、重く、心にのしかかります。
映画監督の夢も虚しく感じて、悶々と日々を過ごすサミー。
やがて両親の離婚が決まると、悲嘆に暮れて母親への恨みを吐き出す妹からサミーへ意外なひと言が。
それは、「(家族の中で)あなたが一番ママに似ている」というものでした。
一方で、当のミッツィからは「心のままに生きてね」と言い残されるサミー。
「心のままに生きる」DNAが自らの中に息づいている。そのことを自覚せざるを得ないサミー‥‥。
映画への情熱が、再び沸々と湧き上がってくるのでした。
☆父の影響と巨匠の助言
映画監督としての核になる非常に重要なものを、こうして母親から学び、受け継いだサミーでしたが、父親はいくつになっても苦手なままです。カリフォルニアへ引っ越してすぐ学校でイジメられたとき、「パパがこんなところへ連れてくるからだ」と八つ当たりするのも、だからなんとなく許せてしまうほどです。
実際、ことあるごとにぶつかり合う父子でした。
「映画のような架空の物語ではなく、何かの役に立つ、人が使える物を作るんだ」
口論の勢いで、父からはっきりそう言われてしまったこともあります。父から見れば映画はただの趣味。仕事にするものではないのです。
サミーは本気で映画監督を目指していて、「趣味」と言われるのがたまらなく嫌だったのですが‥‥。
そんな父親でも、母や子供たちへの愛情は深く(彼なりの愛情ですが)、優しくて頼りがいのあるとてもいい人、と母から評価されていた様子も本作には描かれます。
機械を扱うことは得意でも、心を扱うことはあまり得意じゃない人。だから感情表現が豊かなベニーに母は惹かれてしまったのだ。サミーや妹たちは、そんなふうに感じていたのでしょう。
自分を理解してくれない父親への、この意外なほど温かい目線には、はっきりとした理由があったとモリゾッチは思います。
スピルバーグ監督が気づいていないはずはないからです。このエンジニアの父から受け継いだ資質が、映画監督としての自分の仕事にとても重要で、役に立つもうひとつの要素だったということを。
考えてみてください。
芸術的感性が豊かで情熱的で心のままに生きる監督が次から次へと思いつくアイデアの数々‥‥。
それはスタッフや役者にとってどれほどのプレッシャーになることでしょうか?
そして、どれほど彼らを苦しめることでしょうか?
アイデアを実現するための具体的な方法論と、それを着実に前に進める緻密な計画性。
そうした能力が備わっていればこそ、スタッフや役者が信頼してついていくことになるのです。
低予算と早撮りで知られるスピルバーグ監督ですから、人一倍そうした能力に長けていたことは明らかですね。
心躍る優れたアイデアとそれを映像として実現させる能力。
その両方が揃って、人は初めて天才監督となるのです。
そしてさらに言えば、父の仕事の都合でカリフォルニアに引っ越したことも、サミー、すなわちスピルバーグ監督にとって大きな幸運でした。ハリウッドに物理的に近づくことは、映画業界との距離が縮まること。その幸運を最大限に利用して人脈作りに成功したからこそ、映画監督への道が開かれた‥‥。
心の中で父に感謝しても、バチは当たらないと思いますね。
監督の中には、そうした思いもあったのではないでしょうか?
さて、ここまで見てきたフェイブルマン家の物語。それは、二重の意味で非常に特殊な家族の物語でした。
ひとつはベニーという家族同然の存在があったという意味において、そしてもうひとつは、のちに天才監督を生み出す家族だという意味において。
そしてそれと同時に言えるのは、その物語の中で成長していくサミーには、本人の意思とは関係なく母親と父親の両方から受け継いだものがちゃんと混ざり合っていて、ときに理解し合えず、ときに反発し合うこともあるけれど、いいところも悪いところもひっくるめて影響を受けているのだと。その意味では、どこにでもある家族の物語と何も変わらないのだと。
ホームコメディ、ホラー、学園もの、そしてアクション映画‥‥。
さまざまなタッチを取り入れて飽きさせない本作ですが、その底流にあるのは、そんな家族へ向けたスピルバーグ監督の優しい眼差しではないでしょうか。
特殊な家族の普遍的な物語。
最後に、巨匠ジョン・フォードからの助言について。
ちなみにジョン・フォードはアカデミー監督賞を4度受賞(最多記録)している巨匠中の巨匠ですが、スピルバーグ監督はこの役を、自分と同業で同年代のデイヴィッド・リンチに依頼しました。
しつこく葉巻を吸う姿が印象的な、なかなか味のある巨匠監督に仕上がっています。
そんな巨匠からサミーが受けた助言は、「地平線を画面の中心に置くな」というものでした。その部屋の壁にはさまざまな映画のカットが飾られていますが、確かに地平線は画面のうんと下の方にあるか、またはかなり上の方にあるのでした。
緊張と興奮とでわけがわからず、とりあえずうなずいてその場をあとにするサミーですが、建物から出る頃には、彼の心はささやかな希望に包まれて、足取り軽くスタジオの前の道を歩いて行きます。カメラはそんなサミーの後ろ姿を捉えています(ポスターに採用されたカットですね)。
地平線は最初は画面の真ん中にあるのですが、しばらくしてから、「あ、いけねっ」という感じで、カメラが低くなり、地平線を画面の下の方にもっていきます。なんともお茶目な、ラストカットとなりました。
人が普通に立って景色を見ると、多くの場合、地平線は目に映る画像の中央に水平に位置します。これを画像の下にもっていくには、しゃがんだり、腹ばいになって景色を見上げればいいのです(ローポジション)。逆に画像のかなり上の方へもっていくには、高い木や脚立に登って見下ろす必要があります(ハイポジション)。
巨匠の助言は、このように単に画像の撮り方のことを言っているようでもありますが、面白いものを作りたかったらいつもと違った角度で物事を見る必要がある、と教えているようでもありますね。
のちにスピルバーグ監督によって世に送り出された作品たちには、確かにそうした工夫がいっぱい詰まっている。
そう感じるのは、モリゾッチだけでしょうか?