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『独裁者』レビュー☆権力に対する批判と人々への共感
映画史に残る名作中の名作から、このブログをスタートさせようと思います。大変古い映画ですが、この作品の価値は製作当時から少しも色褪せていません。それどころか、いま最も観る価値のある映画、と言っても過言ではないかもしれません。
- 『独裁者』
- 脚本・監督
チャールズ・チャップリン - 主な出演
チャールズ・チャップリン/ポーレット・ゴダード - 1940年/アメリカ/125分
※以下の記事は作品の魅力を紹介するため最小限のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。
☆初めて挑んだトーキー
これは、喜劇王チャップリンが初めて作ったトーキー映画です。
トーキーというのは画面と音声がシンクロしている映画で、現在の我々からすればごく普通の映画のスタイルということになります。トーキー以前の映画はといえば、サイレント(無声)映画。セリフはあっても音声はなくて、役者が何をしゃべっていたかは字幕で表示されるスタイルでした。
ということは、本作は観客が初めてチャップリンの声を聞くことができた作品ということになります。そのせいかどうかはわかりませんが、数多いチャップリン作品の中で本作は最も商業的成功を収めた作品として記録されています。
☆独裁者と名もなき床屋
さて、その初のトーキー映画の舞台にチャップリンが選んだのは、トメニアという架空の国。ユダヤ人を弾圧し、近隣諸国へ侵略戦争を挑む、ちょび髭の独裁者ヒンケルが統治しています。
制作された1940年といえば、ヒットラー率いるナチス・ドイツがヨーロッパ各国への侵攻を続けている年で、アメリカはまだこの大戦に参加すらしていません。そのようなリアルタイムでナチスの侵略を批判する映画が作られたということに、まず素直に驚きを覚えます。
チャップリンはここにもうひとり、ちょび髭の男を登場させます。
役名は「ユダヤ人の床屋」。固有名詞はありません(クレジットは “A Jewish Barber” )。彼はなぜか、独裁者ヒンケルと瓜二つなのです(チャップリンが二役を演じます)。
床屋に固有名詞を与えなかったのは、「名もなき市民」、つまり「独裁者」と対峙する「一般市民」の役割を彼に負わせたかったからでしょう。
そう、この映画は独裁者とその仲間達を風刺し、虐げられる一般市民の苦しみを、その苦しみの中から彼らが微かに見出そうとする希望を、笑いの中に描き出そうとする映画なのです。
☆地球儀は風船、映画史に残る名場面
前半のハイライトは、独裁者ヒンケルが世界征服を夢見るシーン。
執務室に飾られた大きな地球儀を手に取り、空中に放り投げます。すると地球儀は大きな風船であることがわかり、ヒンケルは落ちてきた地球を指先で受け止めます。
うっとりとした表情で、手のひらの上の地球を眺める独裁者。
もう一度空中へ放り上げると、今度は頭で打ち返します。何度も繰り返すうちに、とうとう机の上にうつ伏せに寝そべってお尻で打ち返したり‥‥。
そして不意に、地球は彼の手の中で破けて、失われてしまうのです。
ぞっとします。
しかし、このシーンには何も誇張はありません。
実際に侵略戦争を仕掛ける独裁者がしていることは、指先で地球を弄ぶ行為と同じなのだと、誰もが感じることでしょう。
記憶に残る、素晴らしいシーンです。
☆貧しく弱い者への共感の眼差し
少し横道にそれますが、実はモリゾッチの中で映画熱が盛り上がるきっかけのひとつとなったのが、チャップリン映画だったのです。まだ10代の頃の話です。
その頃モリゾッチが住んでいた街のとある名画座が、チャップリン特集を企画しました。自分ひとりで、この作品を観ようと決めて映画館へ行ったのは、ほとんどそのときが初めてだったような気がします。
テレビで観たことのあった後期の作品の他に、若い頃の作品が多数(確か週替わりで)上映されたと記憶しています。当時としてもチャップリンの映画は相当古い作品で、しかもほとんどがサイレント映画なのですから、かなり思い切った企画だったように思いますが、おかげでチャップリン映画の真髄ともいえるものに若くして触れることができたのは、大きな経験でした。
あの頃、10代のモリゾッチは、チャップリン映画の何に夢中になったのでしょう?
どの作品にも心動かされ、笑い、涙して、毎週映画館に通いました。
感じていたのは、映画って素晴らしい、映画って価値がある、映画って人生に欠かせない、言葉にすればそういった感覚です。
パントマイムの芸を磨いたチャップリンの映画は、わかりやすいのです。
セリフがなくても、理解でき、心に届くのです。
そして常に、貧しい者、弱い者、正しい者の味方です(「正しい」という言葉が好きでない方は「清い」と言い換えてください。それも好まない方は「ずるくない」と言い換えてください。とにかくそういうことです)。
そうした社会の底辺で懸命に生きている人たちへの共感で溢れています。
その共感を、笑いで包んで、というか笑いを武器にして、広く世の中に広げたい。そんな心意気のようものを、魂のようなものを、モリゾッチは感じていたように思います。
映画って、素晴らしい。
映画作品を観たとき以外で、これと似たような感覚を覚えたことが数年前にありました。
2017年2月に開催された、第89回アカデミー賞の受賞式です。
受賞者のスピーチや司会者のトークの中で、当時のトランプ大統領を風刺したり、批判するコメントが相次いだのです。「ハリウッドのイベントで参加者が政治的発言をするのは珍しくはないが、現職の大統領にこれだけ批判が集中するのは異例だ」と日経新聞は報じました。
国境に壁を立てたり、移民に対する排他的政策を採ることで、世界に「分断」を持ち込む大統領の政治手法に、映画界が強烈な「NO」を突きつけたのです。授賞式は、さながら大統領への抗議集会の様相を帯びていたと、モリゾッチは記憶しています。
「分断」ではなく人々への「共感」こそ、映画界が大切にしたい価値観なのです。授賞式の会場にいた人たちは、皆そのことを理解していました。
映画って、素晴らしい。
(誤解のないように書き添えますが、今のハリウッドに何も改める点がない、と主張する意図はありません。アメリカの映画界にもギャラの男女格差とか様々なハラスメント事例があることは聞こえてきます。それでも、人間にとって、文化にとって、とりわけ映画にとって大切な価値観を見失わない。大統領といえども、批判すべきはきちんと批判する。そういう姿勢が、モリゾッチの胸を熱くしたのです。)
あらためて、映画って素晴らしい。
☆5分に及ぶ演説シーンで伝えたかったこと
話を本作、つまり『独裁者』に戻します。
終盤、ひょんなことからヒンケルと間違えられた名前のない床屋は、占領した隣国の大群衆の前で演説をしなければならなくなります。自分はヒンケルではない、とは今更言えません。
戸惑い、恐る恐る壇上に上がった彼は、ついに意を決して語り始めます。
そこからカメラは、名前のない床屋だけを写し、動きません。
彼は独裁者を批判し、侵略戦争を批判し、人間の幸せについて語ります。
その姿を、カメラは真正面から写し続けます。
およそ5分に及ぶこの演説は、映画史に残る名シーンとなりました。
その間、挿入されたカットはわずかに2カット。
彼の演説を聞いて歓喜する大群衆。そしてもう1カットは、床屋と親しかったハンナという女性(彼女はこの隣国の農園に逃げ伸びたものの、結局ヒンケルに占領され迫害を受け、打ちひしがれてラジオで演説を聞いています。ちなみにこの女性に与えられた「ハンナ」という名前は、チャップリンの母親の名前でもあります)。
演説の最後に床屋は、ハンナに呼びかけます。
ハンナ、聞こえているかい?
光が差し始めた。きっと明るい未来が来る。
だから希望を捨てないで。元気を出しておくれ。
立ち上がり、空を見上げるハンナ‥‥。
その横顔のアップが、ラストカットになりました。
チャップリンはまるで、こう言いたかったかのようです。
トーキー映画を作る以上、役者が語るセリフはこれくらい意味のあるものでなければいけない。
逆に言えば、この最後の演説をどうしても自分の声で届けたくて、トーキー映画の制作に挑戦したのだ。そう考えても、あながち間違いではないのかもしれません。
将来自分は「独裁者」の側でなく、「表現者」の側に立っていたい。いや、絶対にそうしよう。
この作品を見終わった10代のモリゾッチは、そう強く心に誓ったのでした。
どうぞテレビのニュースを思い出してください(この記事は2022年2月26日に書いています)。
ずるい目をして、白々しい言葉を並べる、どこぞの国の指導者の演説とこのシーンの演説を、ご自分の目で見比べてください。
映画の素晴らしさ、映画の底力を、きっと感じ取っていただけると思います。
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