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『マトリックス』レビュー☆この世界の真の姿とは、そして自分は何者か?

出典:本作DVDパッケージより
アクションの森

もはやSFアクション映画の古典になった、と言っても過言ではない作品を紹介します。それほど、後の作品に多大な影響を与えた本作ですが、いま観ても古臭いと感じるところはほとんどありません。


  • 『マトリックス』
  • 脚本
    ラリー・ウォシャウスキー/アンディ・ウォシャウスキー
  • 監督
    ウォシャウスキー兄弟
  • 主な出演
    キアヌ・リーブス/ローレンス・フィッシュバーン/キャリー=アン・モス/ヒューゴ・ウィーヴィング
  • 1999年/アメリカ/136分

※以下の記事は作品の魅力を紹介するため最小限のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。

☆あらすじ

20世紀末のニューヨーク。大手ソフトウェア会社でプログラマーとして働くトーマス・アンダーゾン(キアヌ・リーブス)には、天才ハッカー「ネオ」というもうひとつの顔があった。
自分が暮らしている「この世界」に対する漠然とした違和感を抱えていた彼は、ある日PCのディスプレーに表れた何者かからのメッセージに従い、とあるパーティーに参加する。

そこで彼に声をかけてきたのは、トリニティと名乗る女性(キャリー=アン・モス)だった。彼女に導かれるまま、謎の組織のボスらしき男モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)と対面するトーマス。そこで彼は、驚くべき話を耳にする。
「この世界」はコンピュータが作り出した仮想現実に過ぎない、というのだ。

モーフィアスは手の平に赤いカプセルと青いカプセルを並べて、こう言った。
青いカプセルを飲めば、今日の出来事はすべて忘れる。昨日までと同じ明日が続いていくだけだ。しかし、この世界の真の姿が見たいなら、赤い方を選べ。

赤いカプセルを飲んだトーマスは激しいショックで意識を失うが、目覚めたとき彼は、人ひとり分の大きさの、培養液で満たされた透明な浴槽のようなカプセルの中に、全裸で横たわっていた。起き上がってみると、薄暗い空間の中に、同じようなカプセルが上下左右に無限と思えるほど連なっていた。恐ろしい光景だった。

やがて警報が鳴り響き、パトロール・ロボットにつまみ上げられた彼は、不良品と見なされたのかダスト・シュートのような廃棄口へ。だが、そこで待ち受けていたモーフィアスに助けられ、彼らの工作船ネブカドネザル号に収容される。

再び目覚めた彼にモーフィアスが語った「この世界」のあらましは、次のようなものだった。

21世紀初頭に作り出された人工知能・AIは進化して意識を持つようになり、やがて人類と敵対するようになった。地球上の覇権を争う人類とコンピュータの戦争。
当時の主な動力源は太陽エネルギーだったが、人類は敵の動力源を奪うために太陽光が地上に届かないように、分厚い雲で空を覆った。だが、コンピュータの方が一枚上手だった。彼らは人類の生体エネルギーと核融合とを結びつけ、莫大なエネルギーを生み出す巨大な発電所を完成させた。

かくして2199年のいま、人類は「生まれる」のではなく「栽培」されている。コンピュータを動かすための「電池」として。

そしてコンピュータは、その「電池」の性能維持と反乱防止のため、すべての「電池」の意識を、「マトリックス(MATRIX)」というひとつの共通の仮想現実の中に閉じ込めることにした。それが、トーマスたちが暮らしている、1999年だとされている「この世界」なのだ。

トーマスは「ネオ」と名前を変え、ネブカドネザル号の仲間たちとともに人類を解放するための戦いに身を投じることになる。「マトリックス」には「エージェント」と呼ばれる、コンピュータが作り出した戦闘員が潜んでいて、人間が彼らに勝つことは不可能とされていた。ただ簡単に殺されてしまわないように、仮想空間での闘い方を修得する厳しい訓練の日々。

その中でネオは、自分が予言された「救世主」と信じられていることを知る
半信半疑のネオ。自分が人類の救世主?

ある日ネオは、仲間たちが「預言者」と呼ぶ高齢の女性に引き合わされる。そして彼女との会話の中で、自分は救世主ではないと確信する。ホッと安堵するネオに、「預言者」は続ける。
モーフィアスはあなたを救世主と信じている。信じるあまり、自分の命を捨ててまであなたを守ろうとするだろう。あなたは彼の命と自分の命、どちらを守るか選択を迫られることになる。

その予言を聞いて呆然とするネオ。
でも、運命を信じすぎてはいけない。「預言者」は最後にこう言った。自分の人生は自分で作るもの。

ほどなくして、仲間の裏切りにより、モーフィアスがエージェント・スミス(ヒューゴ・ウィーヴィング)に捕らえられる。仲間たちはモーフィアスの命を諦めようとするが、ネオは反対した。モーフィアスを救出してここに帰ってくる。まるで予言に逆らうように、ネオはそう宣言した。

それを聞いて、トリニティの目が輝いた。彼女もネオに付き従い、2人でモーフィアスの救出へ向かうことになった。
実はトリニティもまた、「預言者」からある預言を聞かされていたのだった‥‥。

出典:DVDパッケージより

☆誰もが知っている超有名な場面

この作品のタイトルを聞くと、ほとんどの人が、あるひとつの場面を思い浮かべることだろうと思います。
それは、自分に向かって放たれた銃弾を、ネオが上半身をのけぞらせてよける、そのアクションをスローモーションにして、しかもカメラが360度回転して全方向から見せるという、あのシーンです。

「マトリックス」という仮想空間での戦闘ですから、リアルな地球上での物理法則には制約されません。訓練と才能次第で、超人的な動きも可能になります。あたかも、格闘ゲームの登場人物のように。

銃弾をよけるあの有名なシーンは、仮想空間での活動におけるネオの非凡な才能を物語る場面で、本作を象徴する場面となりました。
当時さまざまなテレビ番組やCMなどで競うようにパロディ化されましたので、おそらく本作をちゃんと観ていない人でも、このシーンのパロディはどこかで目にしているのではないでしょうか。

それくらい、世の中にインパクトを与えたアクションであり、カメラワークであり、撮影手法であったわけです。

この手法は「バレットタイム(Bullet-time)」と呼ばれ、役者の周りに120台のカメラを配置して撮影したと伝わります。お金も労力も時間もかかる大変な撮影だったと思いますが、それだけの価値はあるカットだったわけですね。

(C)1999 Village Roadshow Films (BVI) Limited.
(C)1999 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

☆世界中が仰天したワイヤーアクション

仮想空間での超人的な動きを具現化するために、本作にはワイヤーアクションも採用されています。長らく香港製カンフー映画の専売特許であったワイヤーアクションですが、本作の成功を受けて、ハリウッドのアクション映画でそれ以降盛んに使われるようになりました。

ちなみに、カンフーアクションとはなんの関係もない『ゼロ・グラビティ』(2013年)でも多用され、無重力状態の表現に一役買ったことは有名ですね。

本作では前半の見どころのひとつ、ネオがモーフィアスから武術の指導を受ける場面で、ド派手なワイヤーアクションの連続に度肝を抜かれます。
ハリウッド製の、しかもSF映画でこの動き?
当時、世界中の映画館で仰天する人が続出したことは、間違いありません。新鮮な体験でした。

目に見えないほどの高速で、連続して繰り出される突き。人間業とは思えない跳躍力。ものすごい破壊力の蹴り。
まさに、格闘ゲームの世界に入り込んだかのようです。
しかし、そこは仮想空間である「マトリックス」‥‥ゲームの世界との親和性はバッチリです。

物語終盤では、エージェント・スミスとの死闘の中でも、たっぷりとワイヤーアクションを楽しむことができます。

(C)1999 Village Roadshow Films (BVI) Limited.
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☆本作の最大の特徴はその世界観

これがただのアクション映画であれば、こうしたアクションシーンの話をずっと続けていればいいのですが‥‥。そして、そういう話題は大変楽しいものなのですが‥‥。本作には、語らなければいけないもうひとつの大事な要素があり、語り出すとそちらの方が長くなってしまう予感がするものですから、少し先を急ごうと思います。

というわけで、ここからはアクションを離れて、この映画のもうひとつの重要な要素‥‥ズバリ「世界観」というものについて触れていこうと思います。

作品の世界観というと、「作品が世界というものをどう捉えているか」ということですから、映画の設定上の話、と理解される方が多いと思います。
つまり、現実の世界と思っていた1999年のニューヨークは仮想現実でしかなくて、本当の現実はコンピュータによって人類が「栽培」されている2199年のこの世界なのだ、という設定のことですね。

もちろん、それもこの映画の「世界観」であることは間違いありません。
ですが、ここで話題にしたいのは映画の設定そのものではなく、その設定を採用する際にベースになった「世界観」とでもいうべきもののことです(それはもしかしたら、監督したウォシャウスキー兄弟の「世界」に対する見方とイコールなのかもしれませんが)。

本作の前半にこんな場面があります。
この世界の真の姿がどのようなものか、モーフィアスがそれをネオに説明しようとします。2人の前にはソファとテレビが現れます。
「これは現実なのか?」とネオが尋ねます。
「現実とは何かね?」とモーフィアスは返します。「五感で知覚できるもの、という意味なら、それは脳による電気信号の解釈にすぎない」

(C)1999 Village Roadshow Films (BVI) Limited.
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☆この世界の真の姿とは?

この非常に短いやりとりの中で示されるものの見方が、本作の企画の根底にある「世界観」だと思います。

まわりくどいようですが、別の言い方をすれば、モーフィアスはこう言っているのです。
我々が現実を認識するとき、目や耳や鼻などから得た情報が身体の中で電気信号に変換されて、脳でそれと認識される。もし脳に信号が届かなければ、我々は現実を認識できない。逆に言えば、信号が脳に届きさえすれば我々は「現実」を認識する。たとえ、目や耳や鼻がなんの情報も得ていないとしても。

培養液に浸かってチューブに繋がれた状態で、カプセルの中で眠っているだけでも、1999年のニューヨークという「現実」を認識してしまうのですね。

つまり、人間の知覚は不確かで危うい。私たちが見ている「現実」は、この世界の真の姿とは違うのかもしれない。
この哲学的とも言える認識というか、発見が、この作品の根底に流れている「世界観」で、それをベースにして、この映画の設定が構築されているのです。

そしてこの「世界観」は、おそらく私たちの誰もが一度は胸に抱いたことのある疑念と重なります。おぼろげな疑念に形を与えてくれる、と言ってもいいかもしれません。

自分が生きている世界はなぜこんな姿をしているのか?
誰もが一度は、特に人生のかなり初期の段階で、この疑問にぶつかることがあると思います。
この世界に対する漠然とした違和感。
それを一度も経験しないまま大人になった人が、果たしてどれくらいいるでしょうか?

かくいうモリゾッチも、実は天文学者に憧れていた宇宙好きな少年だったのですが、自分たちの宇宙はとてつもない巨人が水槽の中に作り出した小さな泡のひとつなんじゃないか、という空想にずいぶん悩まされました。その巨人は大きな目で泡の中を覗き込んで、僕たちの行動を見張っているのだ。そう考えると眠れなくなって、そっとカーテンを開けて暗い夜空に目を凝らしてみると、星々の光の向こう側に大きな目のようなものを見つけた。そんな気がしたときもありました。

小さな子供の頃のたわいもない空想ですが、悲しいことや嫌なことがあったときは、どうせこの世界は巨人の気まぐれで消えてしまうかもしれないのだから、くよくよ考えてもしょうがない、と思えた反面、いいことがあったときなどは、巨人がこの世界を消してしまわないだろうかと、心配になってしまうのでした。

この巨人のことを、みんなは「神様」と呼んでいるんじゃないか?
そんなことも考えました。
そしてつい最近になって、大昔の人たちもモリゾッチ少年と同じような空想をしていたことを知りました。

ヨーロッパから中央アジアにかけて広く分布するウラル・アルタイ語族には、神様がこちらを覗くとき天空にすき間ができて、そこから向こう側の光が漏れたものが流れ星だ、という伝承があるそうです。だから、流れ星を見たときに願い事をすれば、天空のすき間から神様のところにそれが届く、というわけですね。

ウラル・アルタイ語族というのは、かつて世界3大語族(ちなみにあとの2つは、インド・ヨーロッパ語族とセム・ハム語族というそうです)のひとつと言われたようですので、まあ、古代の地球人のざっと3分の1くらいの人がそういう空想をしていた、ということなのでしょう。

さて、空想の中身や3分の1という数字はこの際どうでもいいのですが、古代人も私たちも空想好きな一面があるようで‥‥。どうやら人という生き物は、目に見えているものだけが真実ではないと、本能的に知っている生き物なのではないでしょうか。それが人間という生き物の本質、と言いますか、目に見えているものの裏にある真実を求めないではいられない生き物。それが人間‥‥。

そう考えてくると、私たちが本作の「世界観」に惹きつけられるのは、いわば必然ということなのでしょう。
私たちは皆、それと意識しないまま理解しているのです。ネオやモーフィアスたちの物語は、遠い過去から私たち人間がずっと繰り返してきた物語なのだと。

少しだけ例を挙げてみましょう。
例えば、アステカ・マヤ・インカ文明に、人間を生贄として神に捧げる風習があったことはよく知られています。エルニーニョ現象やラニーニャ現象による異常気象、それが引き起こす洪水や干ばつは、当時の農業や漁業に壊滅的な被害をもたらし、人々は神の怒りを鎮めるため自分たちの最も大事なものを差し出した、と考えられています。発掘調査からは、生贄は成人に限らず、小さな子供の集団生贄の跡も見つかっていると言います。

この文明の中に生きていた人たちは、自分たちの世界にどれほどの違和感を感じていたことでしょうか。
普通に考えれば、食糧危機の際には食べ物に困った農民が一揆を起こし、働かずに贅沢をしている指導者の蔵へ押し入ってもよさそうな気がしますが‥‥。
生贄の儀式などを広場で見せられたりしたら、恐怖でその気も無くなってしまい、「生きてるだけでいいや」的な諦めの境地に陥ってしまうのでしょうか。

いずれにしても、当時の指導者にとって大変都合がよかったために、この風習は長く、そして中南米の広い範囲に残り続けたのでしょう。
そして16世紀にスペイン人がやって来て、天然痘の流行や内戦によって弱体化していたインカ帝国は、あっけなく征服されます。インカの人々にとっては新たなる受難の始まりですが、キリスト教の神との出会いは、「世界」に対する新しいビジョンを彼らにもたらすことになったのです。

皮肉なことに、というか奇しくも、というか、ちょうどその頃キリスト教文化圏でも、「世界」に対する見方が大きく変わる事件が発生していました。
はい。お気づきのように、天動説と地動説の議論ですね。

スペイン人フランシスコ・ピサロが初めてインカ帝国の領土に到達してからちょうど90年後の1616年、ついにローマの異端審問所がガリレオ・ガリレイに対して、地動説を唱えることを禁じました。いわゆる「ガリレオ裁判」です。
「それでも、地球は回っている」とガリレオが呟いたというのは、フィクションかもしれませんが、あまりにも有名ですね。

それからおよそ400年後の2023年、ロシア国民にとっての「現実」は以下の通りです(この記事は2023年1月31日に書いています)。
「かつてナチスを倒した正義の国ロシアは、いま西側諸国の脅威にさらされている。北大西洋条約機構(NATO)という悪の同盟は常に領土の拡張を目指しており、その最前線となっているのがウクライナのネオナチ政権である。我々はこの政権を打ち倒し、ウクライナのロシア系市民に平和をもたらさなければならない」

「西側諸国」に属する私たちは、モーフィアスの立場です。
ロシア国民がいま見ている「現実」は、情報統制によって作り出されたいわば仮想現実、つまり「マトリックス」に過ぎない、ということを知っています。

すべては2024年3月に控える大統領選挙で「圧勝」を演出して、独裁政権の基盤をさらに固めるための戦略であり、そのための軍事行動であった‥‥というのが、(非常に残念な話ですが)ロシア国民がいま見ている「現実」の真の姿なのです。

もしもネオが2023年のロシアにいたとしたら、こう言うかもしれません。

馬鹿な。
戦禍に散った人々は、そんなことのために死ななければいけなかったのか?
そんなことが、許されていいのか?

そう言いたくなる気持ちはわかります。
私たちの誰もが、アステカ・マヤ・インカの指導者たちに向かってそう言いたくなるのと同じです。
では、どちらの指導者がより愚かでしょうか?

ロシア国民を「マトリックス」から解放するため、ネオのような戦士の登場が待たれるところです。それが叶えば、ウクライナの人々を苦しみから解放することもできるでしょう。
もしくは、インカ帝国のように、「外圧」によって‥‥。

いやいや、例え話はこの辺にしておきましょう。
つまり、いま見てきたように、私たちが違和感を感じる「現実」というやつは、政治体制にしろ、社会的な慣習にしろ、科学的な知見にしろ、しばらく後に「真の姿」とされるものが明らかとなり、新しい「現実」に取って代わられるのです。

私たちの歴史はその繰り返しです。

それは前述した通り、私たち人間が、目に見える「現実」の裏側に「この世界の真の姿」を探し求める生き物だからなのです。

さて‥‥、というか、しかし、というか‥‥、実は、私たちが探し求めずにいられないものは、どうやらそれだけではありません。
私たち人間には、「この世界の真の姿」と同じくらい重要で、探し求めないではいられないもうひとつのものが存在します。
そして本作の後半は、まさにそれについての物語となっているのです。

どういうことでしょうか?

「預言者」の言葉を思い出してください。
ネオは「預言者」とされている女性に会い、その言葉や態度から自分は「救世主」ではないと確信します。そしてモーフィアスの命と自分の命を天秤にかける局面が来ることを予言され、さらに最後には、自分の人生は自分で作るもの、と意味ありげな言葉を投げかけられます。

「救世主」と見られることに違和感を覚えていたネオは安堵しますが、その一方で、このときから彼の中でひとつの疑問が急速に膨れ上がっていきます。
だとすると、自分とはいったい何者なのか?

(C)1999 Village Roadshow Films (BVI) Limited.
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☆そして自分は何者か?

モーフィアスがエージェント・スミスに捕らえられたとき、まるでその答えを探しに行くかのように、ネオは「マトリックス」へと飛び込んでいきます。そして繰り広げられる壮大なアクションシーンの数々‥‥。あたかも、彼の「自分探しの旅」を見せられているかのようです。
仮想空間の中で自分は何者たりえるか?
その答えを、探し求める旅‥‥。

そうです。
自分とは何者か?
私たち人間は、その答えを探さずにはいられない生き物でもあるのです。

いま人生のかなり前半だという人は、まさにそのただ中にあるかもしれません。折り返し点をとうに過ぎたという人にとっては、もしかしたら苦い想い出かもしれません。

夢と現実とのギャップに苦しみ、ジリジリとした焦燥感に押しつぶされそうになる日々。
自分が人生で何を成すのか、自分は何者になるのか、なれるのか?
それがわからず、もがき続ける日々‥‥。

それはおそらく、人間だけの焦りであり、悩みであるのでしょう。
だからこそ、ネオの戦いに、私たちは惹きつけられるのです。

というわけで、本作の世界観、本作が掲げているテーマ、その物語に、私たちは共感しないわけにはいきません。なぜなら私たちはおそらく、常にこう問いかけるようにプログラムされた生き物ですから。
この世界の真の姿とは、そして自分は何者か?

(C)1999 Village Roadshow Films (BVI) Limited.
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☆人は誰かの救世主になれる

ネオの「自分探しの旅」は、「救世主」でなかった人間が「救世主」になっていく、その成長の旅でもありました。
自分の人生は自分で作るもの‥‥とは、うまいこと言うもんですね。

「預言者」といえば、彼女はもうひとつ重要な予言をしていました。
それはトリニティに対する予言で、「あなたの愛した人が本当の救世主」というものでした。
エージェント・スミスとの死闘でネオが息絶えたとき、この予言があったため、トリニティはある大胆な行動に出るのですが‥‥。

このエピソードに関するモリゾッチの解釈はこうです。
人は誰しも、自分を愛してくれた人にとっての「救世主」なのだ。あとは本人がそれに見合うように成長するだけ。
努力する価値はありそうですね。

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☆自分の心の中の「ネオ」

さて、本作の脚本・監督を務めたウォシャウスキー兄弟は、1965年と1967年にシカゴで生まれました。ともにゲームや演劇に熱中する高校生活を過ごした後、兄ラリーはニューヨークの、弟のアンディはボストンの大学に進みますが、やがて揃って中退し、シカゴで大工として働きながらコミックの創作を始め、脚本を書くようになったと伝わります。

本作の世界的なヒットによって人生を一変させた彼らですが、4年後の2003年に本作の続編となる『マトリックス リローデッド』と『マトリックス レボリューションズ』を発表します。

その後2008年から2010年の間のどこかで兄は性別適合手術を受け、ラナ・ウォシャウスキーとなりました。弟は2016年に、同手術を終えてリリー・ウォシャウスキーと名乗ることを表明しています(2021年にはシリーズ4作目となる『マトリックス レザレクションズ』が公開されましたが、脚本はラナとほか2名の共同脚本、監督はラナ単独でクレジットされており、リリーの名前はありません。次に2人の作品が観られるのはいつなのか、気になるところです)。

こうして、ラリーとアンディの「ウォシャウスキー兄弟」としてキャリアをスタートさせた彼らは、今では「ウォシャウスキー姉妹」と呼ばれるようになりました。
2人とも、自分が住んでいる世界に対する違和感のようなものを、長い間抱え続けてきたのでしょうか。自分は何者なのかと、問い続けてきたのでしょうか。

映画と出会い、映画を作ることによって、「この世界の真の姿」を知り、自分の心の中の「ネオ」を見つけることができたのかもしれませんね。

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モリゾッチ

モリゾッチ

10代からの映画熱が高じて、映像コンテンツ業界で20年ほど仕事していました。妻モリコッチ、息子モリオッチとの3人暮らしをこよなく愛する平凡な家庭人でもあります。そんな管理人が、人生を豊かにしてくれる映画の魅力、作品や見どころについて語ります。

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