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『きみに読む物語』レビュー☆自分の本当の望みとは?
ラブロマンスの王道のような作品をご紹介します。
アメリカのベストセラー作家ニコラス・スパークスによる、1996年発行の長編小説『The Notebook』の映画化作品です。
- 『きみに読む物語』
- 脚本
ジャン・サルディ/ジェレミー・レヴェン - 監督
ニック・カサヴェテス - 主な出演
ライアン・ゴズリング/レイチェル・マクアダムス/ジェームズ・ガーナー/ジーナ・ローランズ - 2004年/アメリカ/123分
※以下の記事は作品の魅力を紹介するため最小限のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。
☆あらすじ
夕焼けに赤く染まる湖を水鳥たちとともに一艘のボートが行く。そのボートが進んでいく先、湖のほとりに老人介護施設の建物がある。
朝、窓から湖を眺めていた認知症らしき女性(ジーナ・ローランズ)のもとへ、この施設の同じ入居者である男性(ジェームズ・ガーナー)が一冊のノートを持って訪ねてくる。
彼はノートに書かれている物語を読み聞かせるため、彼女を訪ねるのが日課となっていた。
それは一組の若い男女の物語。1940年代のアメリカ南部の小さな街が舞台だった。
材木置き場で働く貧しい青年ノア(ライアン・ゴズリング)は、都会からバカンスのために訪れていた裕福な家庭の令嬢アリー(レイチェル・マクアダムス)と恋に落ちる。
映画を見たり、ボートに乗ったり、泳いだり、ひと夏をともに過ごした。家にもよく連れていき、父親もすっかりアリーに馴染んだ夏の終わり、ノアはアリーを一軒の古い空き家に連れていく。ここを買い取って屋敷を改築し、ここで暮らす。夢を語るノア。
アリーはその夢の中の家に注文をつけた。壁は白、雨戸はブルーがいい。家中を取り囲むようにテラスをつけて、川に面したアトリエが欲しい。アリーはそこで絵を描いて暮らす自分を想像した。
幸せな2人だった。
だが、幸せな時間は長く続かなかった。
アリーの両親によって2人は引き裂かれる。
アリーはニューヨークの大学へ進学し、田舎街に残ったノアは毎日手紙を出したが、アリーからの返事はなかった。失意のノアはやがて第2次世界大戦に招集され、ヨーロッパ戦線へ。
帰還してみると、ノアの夢を知る父が家を売り金を工面していた。復員兵手当てを足せばあの屋敷を買える、と。目標をなくしていたノアは父に感謝し、購入した屋敷に父と住み、改築に手をつけた。
その頃アリーは、実業家の御曹司に見染められ、結婚話が進んでいた。
結婚準備に追われるアリーは、偶然目にした新聞で、ノアがあの空き家を改築したことを知る。ノアの父は屋敷購入後まもなく亡くなり、ノアはたったひとりでボロ屋敷をリフォームしたのだが、その出来栄えが素晴らしく、買い手が殺到しているというのだ。
結婚前にもう一度ノアに会いたい。
アリーは懐かしい田舎街を訪ね、ノアに再会する。彼は、あの日自分がつけた注文通りに屋敷を改築していた。それだけではなかった。自分が都会に去ってから、1日も欠かさず1年間手紙を出し続けたことを知る。
あのひと夏の思い出がまざまざと蘇った。自分たちの愛は本物だった。そう、アリーは思った。
そして2人は、ノアが改築した屋敷で結ばれた。
2日が経ち、3日が経ち、アリーが屋敷のテラスで絵を描いているとき、アリーの母が訪ねてきた。婚約者がここに向かっている、と告げるために。そして母は、365通のノアの手紙を束にしてアリーに手渡した。あのときあなたに渡すわけにはいかなかった、と詫びながら。
婚約者のもとへ戻らなければならないことはわかっていた。気もそぞろで車を走らせ、危うく事故を起こしそうになったアリーは、ひとり路肩に車を停めて、母から手渡されたノアの手紙を広げてみる。
真っ直ぐな愛に貫かれた文面。当時の、そして現在のノアの心境を思い、後から後から涙が溢れた。
「美しいお話ね」
湖のほとりのベンチに座って物語を聞いていた女性は、そう呟いた。
「でも、なんだか寂しい気分だわ」
読み聞かせている男は、隣で優しくうなずくのだった‥‥。
☆普通なら交わることのない2つの人生
初々しく好感度高いカップル
ライアン・ゴズリングとレイチェル・マクアダムス演じる若いカップルの初々しさに、目が離せなくなる作品です。本国での公開時には、「このふたりを好きになれなかったり、ふたりの愛を妬むようなことは難しい」と『ワシントン・ポスト』紙に称賛されたそうですが、同じように思う方は多いのではないでしょうか。
若い2人の俳優はどちらもカナダの出身です。
レイチェル・マクアダムスの方が年齢は上ですが、キャリアで勝るライアン・ゴズリングとの間には撮影時に確執があったとも伝わります。その一方で、本作がきっかけで交際に発展したことはよく知られていますので、男女の仲はなんとも不思議です。
最初はお互いに反発し合いながらも、撮影を通じて少しずつ惹かれるようになっていった、ということもあるかもしれません。そういう目で見ると、一度別れた後に再会したときの2人のお芝居には、心なしかそれまでよりも気持ちが乗っているようにも見えるのですが‥‥。
まあ、本作が順撮りされているかどうかわかりませんので、単なる気のせいかもしれません(ちなみに、映画の中の時間経過の順にシーンを撮影するやり方を、時系列の順に撮るので「順撮り《じゅんどり》」と呼びます。効率を重視する現場では、「ロケ場所押し」とか「セット押し」とかでシーンを順不同で撮っていきますので、撮影初日に一番のクライマックス・シーンを撮るなんて下品なことも、たまに発生します。若い俳優を使う場合や監督が芝居のクオリティにこだわる場合は、「順撮り」でいくことが多くなります。といった事情は、基本的に世界中どこもあまり変わらないと思うのですが、さて本作はどうだったのでしょうか)。
そんな若い2人の記憶に残るシーンがたくさんあることも、本作が多くの人に受け入れられた要因でしょう。
記憶に残るシーンのオンパレード
まずは、田舎街の小さな遊園地での出会いのシーン。一目惚れしたノアは、アリーが他の男子と乗っている観覧車に飛び乗って、鉄骨にぶら下がりながら、デートしてくれるまで降りないと迫ります。
初デートは映画でした。その帰り、夜更けの車道に2人して寝そべって危うく車に轢かれそうになったり、交差点の真ん中でダンスを踊ったり。
再会した後の2人のシーンといえば、例の屋敷の近くの川です。
ボートで繰り出した2人を水鳥たちが取り囲み、水面も見えないほどの水鳥たちの群れと漂う2人。幻想的で美しいシーンです。
その帰りに雷雨に遭い、2人はずぶ濡れになってしまうというオマケがつきます。
住む世界が違うから、なおさら強く惹かれ合う2人
裕福なアリーには、都会の名門大学を出て稼ぎのいい花婿を見つけ何不自由ない人生を送る、という人生の暗黙の設計図があり(これはまあ、彼女の両親が描いたものではありますが)、決められたレールの上を決められた速度で走行しているような日々を送っています。
一方、まったく別の世界で育ってきたノアのアプローチは、レールのない所を自由に走る楽しさを彼女に教えようとするかのようです。
鉄骨にぶら下がっての告白も、夜更けの路上ダンスも、そして水鳥たちと戯れたり、雨でずぶ濡れになるような無計画な行動も、アリーの人生の設計図には描かれていなかったことばかりでしょう。
普通なら交わることのない2つの人生がふとしたきっかけで出逢い、お互いに惹かれ合っていく物語。古今東西、おとぎ話や伝承から小説・戯曲まで、このパターンの恋物語が多くの支持を集めてきたことに気づきます。私たちは、なぜか昔からこういう話が好きなんですね。
イノベーションは異文化との出逢いから、などと言われますが、人類の長い歴史の中で、異世界(つまり異人種、もしくは異民族)との交流が危機を乗り越えるのに役立ったという遠い遠い記憶が、私たちの遺伝子に刻み込まれているせいかもしれません。
私たちがノアとアリーを応援したくなるのは、いわば必然なのでしょう。
☆年老いた2人
さて、タイトルが示す通り、このノアとアリーのストーリーは読み聞かせられる物語なのですが、いったい誰が誰に読んでいるのでしょうか。
あの老人介護施設の年老いた男性と女性には、いったいどんな関係が‥‥?
その答えは映画の後半まで伏せられてはいるのですが、本作はミステリーではありませんから、その疑問が映画の核心というわけではありません。それに、その答えを知ってから観ても、本作から得る感動は何も変わらないと思います。
そしてさらに‥‥、ここまで読んでこられた方は、だいたいもう察しがついている、という気もします。
なので、ここでバラしてしまいますが‥‥。そうです、ご想像の通り、年老いた男女は、あの2人なのです。ここであの2人といえば、ノアとアリー以外にありませんね。
逆に、年老いた男女がその2人以外だったら、ノアとアリーの部分だけを映画にした方がよさそうですもんね。老人パートはいらない、とか言われてしまいそうです。
☆ノートに書かれた物語
不幸にして認知症を患ってしまったアリーのために、ノアは同じ介護施設に入居して(自身も大量の薬を処方されているところからすると、健康に何か問題を抱えているようではありますが)、自分たちの物語を読み聞かせているのですね。自分のこともノアのことも、もはやわからなくなってしまったアリーのために。
年老いたノアが大事に持っているノート。ラスト近くには、このノートに関する真実が明らかになる場面があります。
実は、このノートの物語を書いたのはアリーなのです。おそらくは認知症の初期に、失われゆく記憶を必死に辿りながら書いたものなのでしょう。1ページ目には、アリーの署名とともに、「ノアへ。この物語を読んでくれたら、私はあなたの元へ」と書かれています。
確かに、映画の中の若いノアとアリーの物語(ノートに書かれた物語)は、ノアよりもアリーの心情に寄せて描かれていました。ノアが知らないはずのアリーの心の葛藤や母とのやり取りなどが描かれていたことにも、これで合点がいきます。
そしてもちろん、アリーが期待した通りに、読み聞かせられているうちにすべての記憶が戻る瞬間があります。ノアと抱擁を交わし、束の間幸せな気分に包まれます。
しかし記憶はすぐに消え去り、自分が知らない男と抱き合っている理由を理解できなくなります。彼女はパニックになって大声をあげ、施設のスタッフが駆け寄り、押さえつけられ、抵抗しますが、鎮静剤を打たれて‥‥。
そんな彼女を、悲しそうに年老いたノアが見ています。その表情から、こういうことを日々繰り返しているのだということを、映画の観客は理解します。
そしてまた明日になれば、ノアは何事もなかったかのようにアリーの部屋を訪ね、ノートを最初から読んでやるのだろう、ということも。
☆君の本当の望みはなんだ?
このように現在と過去が交錯し、そのどちらにもドラマがある本作ですが、やはり最大の見せ場は、若き日の2人が再会を果たした後の一連のシーンです。
7年ぶりに顔を合わせた2人は最初はかなりぎこちなく、アリーはすぐに会いにきたことを後悔します。ただ、ノアがボートに誘ったことが、流れを大きく変えることになります。
水鳥たちと戯れリラックスした2人は、空模様が怪しくなって急いで帰ろうとしますが、雷雨の餌食に。
洋服や髪が濡れるのを気にしていたアリーでしたが、ずぶ濡れになり、もはや観念したように全身で雨を受け止めます。その顔は、楽しそうに笑っています。そしてそれがきっかけとなって、決められたレールの上から、彼女は一瞬飛び降りることになるのです。
桟橋に帰ってくると、アリーは突然ノアを問い詰めます。なぜ連絡をくれなかったのか、自分は7年間待っていたのに、と。
ノアも激しく問い返します。俺は1日も欠かさず1年間手紙を出し続けた。なぜ返事をくれなかったのか、と。
互いの気持ちが確認できた以上、もはや2人を止めるものはありません。
愛を交わし、ノアの屋敷で幸せな時間が流れます。アリーの母が訪ねてくるまでは。
母の来訪によって現実に引き戻されたアリーは、すぐ近くのホテルまで来ている婚約者の元へ戻ろうとします。
そのときノアは彼女の前に立ちはだかり、こう訴えます。
君の本当の望みはなんだ?
お父さんやお母さんでなく、君自身の本当の望みは?
よく考えるんだ。
もし彼の元へ戻ることが君の本当の望みなら、俺はそれを受け入れる。
行かなくちゃいけないの。
そう言って車に乗り込み、その場を去ったアリーでしたが、まともに運転できません。
対向車にぶつかりそうになり、路肩に停めた車の中でノアの手紙を読み、号泣します。
そして一度は婚約者の元へ戻ったアリーでしたが、後日荷物をまとめてノアの屋敷へやってきます。出迎えたノアを見て、彼の胸へ飛び込んでいきました。
これが、彼女の出した結論だったのです。
自分の本当の望みとは何か?
その答えを知ることは、簡単なことではありません。
というか、その答えを知ろうとしないまま生きている人も、けっこう多いような気がします。
自分自身のことですが、客観的になれない分、他人のことより理解しにくいのかもしれません。
そのことを端的に示す事例が本作の中にもあります。それは、アリーの母親です。
ノアの屋敷を訪ねた彼女は、アリーを自分の車に乗せ、とある採石場のような現場へ連れて行きます。車に乗ったまま、現場にいるうらぶれた中年男性を遠くから見つめます。
その男性は、かつての彼女の恋人なのです。親の反対にあって彼とは別れ、いまの夫、つまりアリーの父親と結婚したのでした。まるで、アリーとノアのようですね。
彼女はそういった事情を助手席の娘に聞かせた上で、自分はあなたのお父さんと結婚して幸せだった、と言います。後悔なんかまったくしていない、と続けます。
しかし、なぜかその目からは、涙が溢れているのです。
いやだ、私なんで泣いてるのかしら、などと言いながら涙を拭っているのです。
ノアの屋敷へ娘を送り届けて、車のトランクから隠していた365通の手紙を出して娘に手渡しながら、正しい結論を出すのよ、と言って彼女は去って行きました。
まるで反面教師。そう、モリゾッチには見えました。言葉とは裏腹に、いや、自分の意識とも裏腹に、自分のようになってはいけない、と意図せず伝えているかのようでした。
彼女は、自分の本当の望みに気づかないまま、生きてきたのではないでしょうか。
アリーも、アリーの母親も、決められたレールの上を行く人生が本当に好きなわけではないのです。いや彼女たちだけでなく、おそらくは世の中の大半の人が、レールのないところを自由に走るような人生を、本当は望んでいるのです。しかし家柄や、見栄や、親の価値観や、いろいろな要素が邪魔をして、自分の本当の望みを見えなくしています。もっと言えば、それを見ようとせず、知ろうとしない方が、まわりに合わせて楽に生きられる。それがいまの世の中ではないでしょうか。
自分の本当の望みに気づくことのできたアリーは、幸せだったと思います。たとえ晩年に記憶が失われたとしても、自分が書いた自分たちの物語をノアに読み聞かせてもらえる。そして、一瞬でも記憶を取り戻すことができる。
幸せな人生だと、モリゾッチには思えます。
☆忘れ難いラストシーン
もちろんノアの人生もまた、アリーと出逢えたことで、彩りに満ちた光り輝く人生になったと言えるでしょう。実はノアこそ、アリーの存在を知ったことで、自分の本当の望みに気づくことができたのですから。
レールのない人生は自由な人生。
それは裏を返せば、どういうふうに生きればいいかわからない人生です。ノアはアリーを愛することで、道のない荒野に自分でレールを敷くことができたのです。自分で思い定めて敷いたレールの上を、一歩も踏み外すことなくまっすぐに歩んできたのが、彼の人生でしょう。
とても幸せな人生だと、思いませんか?
さて、その年老いた方のノアとアリーのドラマですが、最後に、そんな2人にふさわしいシーンが用意されています。
とても忘れ難いラストシーンです。
この記事を書くために、先日、10年ぶりくらいにリビングのテレビで本作を観たのですが、途中から一緒に観ていたモリコッチ(妻です)が、このラストシーンを観て号泣していました。あまりに静かだったので、寝てしまったのかと思っていたのですが‥‥。
大泣きする大人を映画ではなく現実として見るのは、いつ以来だかわからないくらいでした。
この人と生きていくことで間違いない。これが自分の本当の望みだ。
そのときに、モリゾッチはそう確信しました。
モリコッチがどう思っているかは、わかりませんが。
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