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『ザリガニの鳴くところ』レビュー☆生き延びることが善である
全世界で累計1500万部を売り上げた同名ミステリー小説の映画化作品をご紹介します。テイラー・スウィフトがオリジナル楽曲を書き下ろしたことでも、話題になった作品です。
- 『ザリガニの鳴くところ』
- 脚本
ルーシー・アリバー - 監督
オリヴィア・ニューマン - 主な出演
デイジー・エドガー=ジョーンズ/テイラー・ジョン・スミス/ハリス・ディキンソン/デヴィッド・ストラザーン - 2022年/アメリカ/126分
※以下の記事は作品の魅力を紹介するため最小限のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。
☆あらすじ
ノースカロライナ州の湿地帯で、将来有望な金持ちの青年チェイス(ハリス・ディキンソン)の変死体が発見されたのは、1969年のことである。
容疑をかけられたのは、この辺りの湿地帯に小さい頃からひとりで住んでいる女性カイア(デイジー・エドガー=ジョーンズ)。彼女は、街の連中から「湿地の娘」と蔑まれていた。
街の老弁護士トム・ミルトン(デヴィッド・ストラザーン)が弁護を買って出て、留置場のカイアと面会する。
弁護をするためには、まずあなたのことを知らなければならない。
そう説得する彼に、カイアは少しずつ口を開いていく。
湿地帯の奥に建つ一軒家で家族と幸せに暮らしていた幼少期のカイア。だが一家は、酒に酔った父の激しい暴力という問題を抱えていた。
あるとき、ついに耐えかねた母が、そして姉たちが、それに続いてすぐ上の兄までも、逃げるように相次いで家を去った。カイアが6歳のときだった。
追いすがるカイアに振り向いた兄は、父親には気をつけるよう忠告し、最後にこう言った。
「危ないときは、ザリガニの鳴くところまで走って逃げろ。母さんの口癖だ」
父と2人暮らしになったカイアは、なるべく父と会わないように、昼間は船の上で過ごした。だが、ある日母からの手紙が届き、その日を境に父は荒れ狂うようになった。母の物はすべて燃やされ、家の中はメチャクチャになった。
そしてしばらくして、その父も家を去った。カイアひとりを残して。
カイアは湿地で食用のムール貝を採り、近くの雑貨店へ持ち込んで、食料やそのほかの必要な物と交換した。学校も行かず、彼女はひとりで、湿地に暮らし続けた。
そして時は流れ、カイアは年頃の娘になった。
ある日、いつもの道にある切り株に水鳥の羽が刺さっているのを、カイアは見つけた。まるで誰かが自分にプレゼントしてくれたみたいだ、と彼女は思った。
後日、その送り主が幼なじみのテイト(テイラー・ジョン・スミス)だとわかった。カイアは、小さいときから鳥の羽が好きだった。そのことを彼は知っていたのだ。
再会した彼はもう立派な若者だった。
羽といっしょに置かれていたメモを読めないと告げると、彼はカイアに文字を教えた。彼のおかげで読み書きを覚えた彼女は、彼が図書館で借りてきてくれた本を片っ端から読破した。
テイトといる時間はカイアを幸せにした。
カイアは、恋をしていたのだった‥‥。
☆女性クリエイターの才能が結集した作品
原作小説は、ノースカロライナ州の湿地帯でただひとり、自然に抱かれて逞しく生きる少女の物語です。2018年に出版されるやアメリカ中の女性の心を掴み、翌2019年、さらに2020年と、2年連続でアメリカで最も売れた本となります。日本でも、2021年の本屋大賞で翻訳小説部門の第1位に輝きました。
著者のディーリア・オーウェンズは、1949年生まれのアメリカの動物行動学者です。ボツワナのカラハリ砂漠などアフリカ各地に赴任した経験があり、研究活動の傍ら約10年の歳月をかけて、彼女が初めて書いた小説が『ザリガニの鳴くところ(Where the Crawdads Sing)』でした。小説の発表時には、彼女は69歳になっていました。
この小説に惚れ込んだのが、女優でもあるリース・ウィザースプーン。自身の製作会社を通して映像化権を取得しました(彼女はプロデューサーとしてクレジットされています)。
そして女性の脚本家(ルーシー・アリバー)が指名され、監督にも女性(オリヴィア・ニューマン)の起用が決まりました。
そして主題歌。
小説の愛読者でもあったテイラー・スウィフトが、非常に印象的で、心に残る神秘的な楽曲を書き下ろしました。この「キャロライナ(Carolina)」という曲のリリースに際して彼女は、一読して虜になった小説のために自ら進んで楽曲を提供したと明かした上で、次のように語っています。
素晴らしい物語について曲を書きました。いつも外にいて中を見ている少女の物語です。比喩的な意味でも、文字通りの意味でも。彼女の孤独と自立。(中略)彼女の絶え間ない優しさ、そして社会がそれを裏切る。真夜中にたった一人になって書きました。
出典:テイラー・スウィフト、映画『ザリガニの鳴くところ』主題歌「Carolina」リリース
原作、プロデュース、脚本、監督、主題歌‥‥そのすべてが女性。
女性クリエイターの才能が結集して創り上げた作品。
本作は、そのように形容して間違いないと思います。
☆湿地の娘の途方もない絶望
主演のデイジー・エドガー=ジョーンズは、イギリスのテレビドラマ『ふつうの人々』(2020年)でゴールデン・グローブ賞テレビ部門(ミニシリーズ・テレビ映画部門)主演女優賞にノミネートされた、ロンドン生まれの新星です。
原作のディーリア・オーウェンズに「まさにカイアそのもの」と言わしめた、文句なしの名演を見せます。湿地の奥深くで孤独に生き延びてきた壮絶な過去を背負いながら、優しさを失わず、愛と好奇心に溢れ、自立した聡明なひとりの女性。年齢不詳とも言える彼女の神秘的なたたずまいが、小説の中のカイアに命を吹き込みました。
本作を生み出すため結集した女性たちの才能。その最後のピースとなったのは、デイジー・エドガー=ジョーンズの俳優としての卓越した才能だったと言えるでしょう。
そんな彼女を、イギリス・アメリカ合作映画『キングスマン:ファースト・エージェント』(2021年)のハリス・ディキンソン、『ノマドランド』(2021年、レビュー記事はこちら)のデヴィッド・ストラザーンら男性陣が、脇を固めてガッチリと支えます。
そして初恋の相手テイトを演じるのは、アメリカのテレビドラマ『シャープ・オブジェクツ』(2018年)などで知られるテイラー・ジョン・スミス。自然を愛する心優しい青年を好演しています。
親に咎められてもカイアの家に通うことをやめず、心からカイアを愛し、カイアを大切に思っていたテイト。
カイアも思いは同じです。
このまま2人が結ばれ、いっしょに暮らすことができれば、どんなによかったでしょう‥‥。
しかしテイトは大学に進学し、湿地の街を離れることになります。
別れる日、テイトはカイアにメモを渡します。書いてあるのは、出版社のリストでした。
カイアが描き溜めた生き物たちのスケッチや生態を記したメモは、きっと何冊もの本になるはず。テイトは、そう確信していました。そうすれば、彼女は貝の採取から解放されるのです。
大学へ行っても君を忘れない。
1ヶ月後に帰ってくる。独立記念日に。
浜辺でいっしょに花火を見よう。
そう約束して、2人は別れます。
約束を信じたカイア。
しかし1ヶ月後、テイトは戻ってきませんでした。
カイアは再び、湿地の孤独な娘に戻ることになったのです。途方もない絶望とともに。
☆母がここを去った理由
途方もない絶望。
心に負った深い傷。
湿地に付いた足跡は、満ち潮に洗われることで形がボヤけていきますが‥‥、彼女の心の途方もない絶望や深い傷も、大自然の中に身を置くことで‥‥、いつの間にか、少しずつ、輪郭が薄くなっていくように感じました。
遊び人のチェイスがカイアに目をつけたのは、ちょうどそういう時期でした。
彼は言葉巧みにカイアに近づき、半ば強引に、なし崩し的に交際をスタートさせます。カイアは特にチェイスに好意をもっていたわけではありませんが、強く拒否しなかったのは、孤独でいるよりはマシだったからです。テイトを愛したときとは、全然違いました。カイアはおそらく誰でもよかった。そばにいてくれるなら、誰でもよかったのです。
しかし、それはとても危険な関係に見えました。
チェイスの目的がカイアの肉体だけだということは、明らかだったからです。
結局、裕福な彼にはすでに婚約者がいて、自分はただ遊ばれていたのだと分かったのは、恋人関係になり、すっかり彼を信用してしまったあとでした。
カイアはまたも深く傷つき、絶望の淵に投げ落とされます。
しかし、ことはそれだけでは済みませんでした。
キッパリと関係を絶ったカイアでしたが、チェイスは執拗に復縁を求め、叶わないと知るとレイプしようとし、全力で抵抗するカイアに激しい暴力を加えました。家の中も、メチャクチャにされました。
カイアは、幼い日のことを思い出していました。父が暴れて家をメチャクチャにした日‥‥。そして母が去った日‥‥。父の暴力に苦しむ母‥‥。
カイアは初めて、母がここを去った理由を理解しました。
☆赤い毛糸の繊維
本作は、そうしたカイアの回想と、彼女の殺人容疑に審判を下す陪審員裁判の場面とが、カットバックしながら進んでいく構成になっています。
ここで、重要な意味をもつ裁判のシーンについて、その争点を整理しながら見てみます。
そもそも遺体の状況はどうであったか?
チェイスの遺体は、湿地全体を見渡せる高さ19mの物見櫓(やぐら)の真下で、半分ほど水に浸かった状態で発見されました。櫓(やぐら)の最上部は一部床板が外れていて、そこから人が落ちるには充分な広さの空間がありました。彼がそこから落ちた、ということは明白でした。
問題は、彼が酔っ払ったか何かで夜中にひとりで上に上がり、ただ誤って落ちたのか、あるいは誰かといっしょに上に上がって、突き落とされたのか?
発見時、遺体のまわりには発見者の足跡しかありませんでした。ひとつだったのか、複数だったのか、とにかく足跡はあったのでしょうが、満ち潮が消してしまったのです。
櫓(やぐら)の手すりから指紋は検出されませんでした。チェイスの指紋もです。
手がかりと言えるものは、遺体の衣服に付着していた小さな赤い毛糸の繊維だけでした。
そしてカイアの家から赤い毛糸の帽子が見つかり、それが逮捕の決め手になったのです。
物証はそれだけでした。
そのほかにあったのは、犯人は「湿地の娘」に違いない、という街の人々の噂話。
女漁りの激しかったチェイス‥‥。「湿地の娘」も彼の餌食になったことを、街の人たちは知っていたのです。
裁判の陪審員は、そんな街の人々の代表でした。
物証に乏しい検察側は、チェイスの母を証人に立たせて陪審員の心情に訴えます。
母は「湿地の娘」が犯人だと信じて疑いません。息子と彼女の関係も知っていましたし、息子が「湿地の娘」から貝殻のネックレスをプレゼントされたことも知っていました。
そのネックレスが遺体からは消えていた。亡くなる日の夜、最後に会ったときは息子の首にかかっていたネックレス‥‥。遺体から消えた‥‥。そんな物を持っていくのは「湿地の娘」だけよ、と母は絶叫します。
しかし警察の捜索も虚しく、カイアの家からもどこからも、そのネックレスは出てきませんでした。
決定的な証拠はないまま、裁判は終盤へと進んでいくのです。
☆昆虫には道徳心がない?
大詰めを迎える裁判。
最後の争点になったは、チェイスが死亡したと推定される夜のカイアの足取りでした。実は彼女はその晩、となり街のホテルで出版社の編集者たちと打ち合わせをしていたのでした。
かつてテイトが残していったリストに従って、カイアはスケッチやメモの見本をいくつかの出版社に送りました。その中の一社から連絡があり、彼女は本当に湿地の生物に関する本を出版することができたのです。
そして問題のその晩は、次回作に関する打ち合わせが行われました。しかも全員が、ホテルに一泊したのです。
アリバイは完璧かと思われましたが、編集者が証言します。
打ち合わせを行ったホテルは立派すぎて落ち着かないと言って、カイアはもっと小さな別のホテルの部屋に泊まった。
となると、打ち合わせを終えてから翌朝編集者たちと再び顔を合わせるまでの間、カイアはフリーだったことになります。
深夜便のバスに乗れば、その間に湿地の街へ行き、朝までに戻ってくることが物理的には可能でした。
しかし、当日のバスの運転手が証言します。
カイアはバスに乗っていなかった。
そこで、検察側の最後の主張はこうなりました。
カイアは夜中にホテルを抜け出し、変装してバスに乗り、湿地の物見櫓(やぐら)の上でチェイスを突き落として、再びバスでとなり街に戻った。そして翌朝、何食わぬ顔で編集者たちと朝食をともにした‥‥。
それに対して、老弁護士ミルトンはこう訴えます。
本件が殺人事件であることを示す証拠は何もない。我々が知っている事実だけから考えれば、事故である可能性も大きい。にもかかわらずカイアが被告席に座らされているのは、彼女が差別され、疎まれた存在だったからだ。
「湿地の娘」と、まるで魔物かのように嫌われてきたが、事実は置き去りにされた可哀想なひとりの子供。それが彼女についての「事実」である。
いまこそ、偏見や差別を捨て去り、彼女に対して公平に接するチャンスなのだ。どうか、法廷で示された事実だけに基づいて公平な判断をしてもらいたい。検察の言うことは単なる主張であり、推理であり、偏見や差別に満ちたうわさ話の域を出るものではないのだから。
見事な弁論。
胸を打つ正論。
弁護士というものはこうあってほしい。そう思わせる、思慮深く、正しく、そして静かな、人々への批判。
しかし、本作の作り手が最も伝えたい事柄は、この人道主義的で真っ当な主張とはまた別のところにある。そう、モリゾッチは感じます。
なぜなら、この一連のシークエンスで最も印象的に描かれているのは、法廷でのミルトン弁護士の弁舌ではなく、問題の夜に行われた出版社との打ち合わせの光景だからです。
そこには、静かな口調で生き物の生態について語るカイアがいます。彼女はこう言っています。
「メスは手強いんですよ。例えば、ホタルの光り方には2種類あるんです。後尾用と、‥‥捕食のための偽の誘い」
「オスを食べるの?」
「怖い」
「昆虫には道徳心が無いからね」
などと口々に言う編集者たちに向かって、彼女は優しく、静かにこう言うのです。
「自然には善悪はないのかもしれません。生きるための知恵。‥‥懸命なんです」
☆生き延びることが善である
彼女が言いたかったことは、言葉を変えればこうなります。
大自然の営みには、人間が考えるような善悪の概念はない。あるのは、生きるか死ぬか。強いて言えば、生命にとっての善は生きること。生き延びること。なぜなら、私たちは皆、生きるために生まれてくるのだから。
つまり、生き延びることが善である。
静かに落ち着いた眼差しでそう語る彼女を見ていると、なぜだか、兄が言い残した言葉が頭に浮かんできます。彼女を置いて家を去るとき、兄はこう言ったのです。
「危ないときは、ザリガニの鳴くところまで走って逃げろ」
生き延びることが善である。
生き延びるための知恵。
生き延びることができる場所。
ザリガニの鳴くところ。
カイアと同じように差別や偏見に苦しんでいる人、生きることに辛さを感じているすべての人に、本作を観てほしいと思います。
辛くても、困難でも、生まれたからには、生きることが善である。そして、生き延びることができる場所はきっとある。作り手たちのそんなメッセージ‥‥。感じ取ってもらうことができるかもしれない、と思うからです。
人間の歴史において長く続いてきた男性中心の社会。その中にあって、虐げられることも多かった女性たち‥‥。いまその女性たちのクリエイティブな才能が結集して、この作品が生み出されたこと。
それは必然のようであり、かつ感慨深い出来事であり、同時に、これこそが映画のもつ力なのだと、拍手せずにはいられません。
さて、判決が下される日。
傍聴席には、小さいときからのカイアの唯一の理解者であった、雑貨店の夫婦の姿がありました。そしてその横には、出版された本を見て、会いにくるようになっていたカイアの兄。さらにその横にはもうひとり、大学を卒業して、湿地の近くの研究所に勤めることになったテイトの姿もありました。
テイトはあの日カイアを見捨てたことを後悔していました。外の世界でどんなに成功しても、カイアがいなければ意味がない。いまでは、そのことをよく理解していました。だから湿地に戻ることにしたのですが、カイアがチェイスと交際中だったので、見守るしかなかったのです。
カイアはそうした人たちとともに、判決を聞くことになります。
意外なことですが、この裁判の決着は物語の終わりを意味しません。
本作ではそのあとの何年かの時間が描写され、事件のことをすっかり忘れかけたときに、不意に真犯人を示唆する物証が出てきます。
それを見て私たちは、作り手たちのメッセージを、あらためて胸に刻むのです。
生き生きと、伸び伸びと、楽しく生きていける場所。
誰にとっても、そういう場所は大切です。
生き延びるために、そういう場所が必要です。
あなたにとって、「ザリガニの鳴くところ」はどこですか?
いまいる場所、と答えられた人は幸せです。
そうでない方、いまは見つかっていなくても、きっとどこかにそういう場所があると、心の中でイメージしてください。そして、探し求めることをやめないでください。希望を捨てないでください。
あなたがいつかその場所にたどり着けることを、心から祈っています。
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